藤井真則のブログ

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TOP > 高句麗軍団出撃(2) 日本国成立前夜

2009年02月21日

  

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2009.2.21.
 
 
「日本国」が成立した7世紀。
 
当時の国際情勢はどうなっていたでしょう。
 
かつて、アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる
世界帝国を築いた人類史上最大の大国ペルシア。
「王の道」は、ユーラシア大陸中央の草原地帯に通じ、
陸路東端はオホーツクに達し、更に海路を経て、
津軽に通じていました。 津軽は、マズダ教(日本でいう
ゾロアスター教)の重要な聖地です。 
 
草原地帯からは、次々と新進気鋭の部族が現われ、
穀倉地帯に侵入しては、新王朝を建てます。
一般に言うシルクロードは、19世紀にドイツ人に
よって「発見」されたものですが、実際に栄えたのは、
せいぜい、1000年前から以降のことです。
 
「もう一つのシルクロード」として、日本でも書籍や
TVで紹介されていますが、本物のシルクロード
「王の道」は、ずっと北方、ハンガリーから、
満州近傍までつながる大草原地帯でした。
ここでは、強力な馬が大量に飼われ、圧倒的な
軍事力を誇りますが、文字で歴史を書く、
ということをしません。 鳥葬なので、骨も
残っていません。 最後の大国モンゴル帝国だけが、
歴史に名前を記しています。
 
隋や、唐を建てたのは、鮮卑族(ソンピー)とされています。
中国の歴史上、漢民族が建てた統一国家は、
「明」だけです。 あとは、群雄割拠状態であったか、
匈奴の属国であった、あるいは、他民族による
統一王朝であったか、です。
鮮卑族は、満州より西方の草原地帯に発する
遊牧民で、かつて、高句麗には、本土を占領された
こともあり、隋王朝には、高句麗に対する恐怖心が
根付いています。 
 
イスラム教が興り、ジハドの宣告と共に、
中東・アジア・アフリカ・ヨーロッパにイスラムの波が
押し寄せ、ササン朝ペルシア、更にその東方、
大草原地帯に君臨した突厥などが、次々に
倒れていく激動の時代。
隋や唐の北方・西方を脅かす遊牧民国家が
崩壊していく混乱の中、数次に亘る高句麗遠征が
繰り返されます。 
 
 
隋は、日本の歴史の教科書では、日本に文化的な
影響を与えた重要な国として描かれていますが、実際には、非常に
短命に終わった国であり、独自の文化を醸成する余裕など
なかった王朝です。 ただ、鮮卑族の強力な軍事力を背景に、
穀倉地帯に住む他民族に大動員をかけ、大運河建設や
大遠征を実行する瞬間的なパワーはありました。
 
 
隋の大軍を、高句麗が撃破しなければ、日本の歴史は全く
違ったものになっていたでしょう。 668年に、高句麗は滅亡しますが、
王朝は日本に亡命し、家臣団の一部は、新羅軍と結束、唐の大軍を追い返します。
日本は、唐の軍団に蹂躙されることを免れます。
 
 
300万もの大軍を前に、都、平城を守る精鋭部隊は、2万数千。
全土では、もっといたはずですが、兵力数は分かりません。
徹底抗戦、篭城、和議、、、、 議論百出となります。
軍議の場、列の後ろの方にいた乙士文徳が進み出て、
 
「 我々が天意をうけとめる限り
 我々に敗北はない 」
 
この一言で決まりました。
 
そういうなら、お前が全軍の指揮をとれ、
ということになり、
 
智将、乙士文徳将軍の下、知略の限りを尽くす
戦いの火蓋が切って落とされます。
 
 
まず、大軍の弱点を突く。
大軍ゆに、大量の兵糧を必要とします。
 

普通は、兵力の少ない側が、要塞に籠もり、
兵力に優る攻め手の方が守り手を兵糧攻めにするのですが、
高句麗は、相手の兵力の多さを逆手にとり、
徹底した兵糧攻めを仕掛けます、、、、、
 
 
 
 
 
 
 

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