このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。
TOP > イスラエル建国
イスラエルの人口の2割がアシュケナジーユダヤ、
8割がスファラディーユダヤで互いに異なる民族ですが
アシュケナジーが政治経済の実権を握っています。
アーサーケストラーの「第13支族」で有名になりましたが
かつての東ヨーロッパの三大帝国ポーランド、
キエフ・ルーシー(キエフ公国)、
カザール(ハザール、カザフスタン辺りが中心)の内、
カザール国は西にキリスト教国、東にイスラム教国と
東西の大国に挟まれる状況下、
両宗教の元であるユダヤ教に改宗します。
聖書に登場するユダヤ人とは何の関係もないのですが
民族の故郷、神から授かりし約束の地へ戻ると
文字通り頭から信じ込んでいきます。
一方、イエス処刑後、ローマ軍の侵攻によりマサダ砦が陥落、
ディアスポラ(民族流浪)となった元々パレスチナにいた
ユダヤ人の多くがテッサロニキやバレンシア地方など
フェニキア人の影響が強い地域へ移住していきます。
1992年バルセロナオリンピック開会式会場となった
モンジュイックの丘はその名の通り
「ユダヤ山(マウント・ジュイック)」ですが、
これはスペイン居住ユダヤ人に追放令が発布された
1492年から500年を記念して開催されたものです。
この追放令を表向きカソリックに改宗したふりをして
スペインに残り続けたマラーノ(転びユダヤ)の一部が
イエズス会を結成し世界に覇権を広げつつ
追放されたユダヤ人はオランダにアムステルダムを
建設しオランダ東インド会社を創立する
あるいは英国に逃れたユダヤ人が英国東インド会社を
設立しました。
スペインに逃れていたユダヤ人のことを
スファラディーユダヤ(スペインのユダヤ)と呼びます。
さて、第一次世界大戦敗戦に打ちひしがれるドイツでは
スイカ1個1億5千万マルクなど供給力不足と国債乱発による
ハイバーインフレが荒れ狂い手の付けられない経済破綻を
来していました。そこへ総選挙によって多数派となった
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が
政権を樹立します。1933年のことです。
ヨーロッパというか世界でも珍しい民主主義政権として
誕生したナチスドイツは1945年ベルリン陥落まで
12年間政権担当政党となります。
彼らは選挙に勝つための組織つくりとし
てユンケル(ユンカー)の取り込みを重視しました。
ユンケルとは主にドイツ東部で主流であった地方領主です。
王家と地方領主の間に主従の契約があり、
住民は地方領主の領地に住み領地外へ出ることは
原則禁止されていました。
ユンケルは領地外交通の自由権をもち通行手形の
発行権ももっていました。
そこへ目をつけたユダヤ人の金貸しは借金取り立ての質として
通行手形発行権やユンケルの身分までをも差し押さえました。
こうしてユンケルのネットワークを組織内部に抱え込んだ
国家社会主義ドイツ労働者党はユダヤ人かその血縁者集団を
内包することになります。
そうでありながら反ユダヤ主義を声高に標榜するドイツ政府は
ユダヤ排斥法を発布しユダヤ人が経営する店からの商品購入を
禁じる等ユダヤ人の生存を脅かす政策をとります。
1933年政権樹立後、ドイツ政府は直ちに
米国シオニスト団体と「ハーヴァル協定」を締結します。
これを米国ルーズベルト大統領が全面支援を約し、
英国貴族院のロスチャイルド議員が要望書を添付し
同協定をチェンバレン首相に上申、
やはり全面協力を取り付けます。
第二次大戦のドイツといえばヒトラーの独裁主義国家
というイメージがあるかと思います。
ところが、そう単純ではなくヒトラーの思い通りに
ならない考え方を異にする有力者に囲まれていました。
その一人がマインカンプ(我が闘争)を書いたルドルフ・ヘスです。
もちろん著者はヒトラーですが、この本は二人と共通の師である
カール・ハウスホッファー卿の3人で協議を重ねた上での著作で
ヘスがライターを務めヘス曰く自身の言葉も含まれている
としています。
ヘスは国家社会主義ドイツ労働者党の副総統に就任し
ポジションとしては組織のナンバー2ですが、
英国チェンバレン首相と共にパレスチナへ出張し、
「ここにユダヤの王国を建設する」と固い握手を交わします。
イスラエル建国を英国首相とドイツNo.2が「再確認」したのです。
ハーヴァル協定ではドイツと米国シオニスト団体は
互いに協力しあいパレスチナにユダヤ人の王国を築くことに
最大最善の努力を為すとあります。
当時のドイツはユダヤ排斥法を発布した反ユダヤ主義の
権化のような国ですが
同時にイスラエル建国に全面協力という国際協定を締結し
その存在と内容を公表します。
正に「それが何か?」あるいは「それが何か問題でも?」文化です。
細かいことは気にしません。
国家社会主義ドイツ労働者党がユダヤ人大量虐殺に
狂奔するのは1943年から2年間、
大量虐殺方針決定は1942年1月ですが
政権担当期間のはじめの9年間は虐殺もありましたが
基本は「ドイツ領内から出ていけ」であって「死ね」とは
言ってなかったのです。
1つの民族1つの国家。
ゲルマン人が住む地がゲルマンの国(ジャーマンでドイツ)
パックスゲルマニカを掲げるドイツが領内から
ユダヤ人を追放するという政策と
ユダヤ人をパレスチナに移住させてイスラエルを建国する
という米国シオニストの「都合」がピタリ一致していたのでした。
その後ドイツはゲルマン人居住地域の併合を要求し続け、
実際に併合し、今日でもロシアがロシア人を移住させた
ウクライナ東部をロシアであると主張し、侵略ではなく進駐と称し、
そして北海道にロシア人を移民させて準備を進めているのと
何も変わらないことが昔から繰り返されてきました。
ハーヴァル協定ではドイツ政府は領内居住ユダヤ人が
パレスチナの地へ移住できるよう最大限最善の努力を為すとあります。要するに強制収容して強制移住させるということです。
個人資産に関してはそのままパレスチナにもっていかれると
ドイツの外為法に抵触します。
産業が荒廃し極端な外貨不足に陥っていたドイツでは
国家社会主義ドイツ労働者党が政権を樹立する前から
厳しい外貨規制が法制化されていました。
そこでドイツ政府は一時的にユダヤ人の個人資産を預かり
国際市場で競売にかけ得られた売却代金としての外貨は
ドイツ政府のものとするが等価のドイツ工業製品を無償で
パレスチナに送りイスラエル建設に協力するという規定と
なっています。
これも端的にいえば個人資産は没収するということです。
最初から米国シオニストがパレスチナに移住すれば
すむ話なはずなのですが、そうはいかないのです。
米国シオニストはパレスチナ移住ユダヤ人に多額の寄付を送る形で
イスラエル建国に貢献します。
入植者個人に土地を買わせてこれを繋ぎ合わせて国にするのです。
パレスチナは英国領ですから当然英国の協力がなければ
移住はできません。
また米国からの巨額の送金を米国が認めること、
さらにユダヤ人が確実にパレスチナへ移住するように
米英ではユダヤ人移住者の受け入れを厳しく制限し続けます。
ハーヴァル協定には大きな裏があります。
ドイツ工業製品はどこにあるのか、です。
供給力不足でハイパーインフレに苦しむドイツが
どうやって工業製品をパレスチナに送り込むのか。
この問題は米国巨大企業が全面サポートします。
ハウスホッファー郷はヒトラーに
ドイツ最大のユダヤ財閥総帥クルップ氏
(戦後はドイル連銀総裁)を紹介したほか
フォードモータース、ジェネラルモータース、
スタンダードオイルなどの巨大企業のトップも
紹介します。
そしてドイツ国内各地に米国企業子会社の
工場群が次々に建設されていきます。
莫大な外貨投資と工場大量建設により
ドイツ経済は一気に再建されます。
米国資本の集中投下はドイツ再軍備の
最大の原動力となりました。
これは何も裏話なのではなく
当時米国上流階級はヒトラーの
政権運営手腕を絶賛しながら
ドイツは共産主義ソ連からヨーロッパを守る防波堤であると信頼を寄せるコメントを続けていました。
1937年に爆発炎上事故を起こした飛行船
ヒンデンブルク号も米独上流階級の活発な
交流を紡ぐ役を担っていました。
さて、ドイツ軍の爆弾とトラックを
ほぼ一手に量産したオペル社。
ジェネラルモータースのドイツ子会社です。
大戦後半の主力戦闘機として3万数戦機も
大量生産されたフォッケウルフFW190戦闘機。
製造はフォードモータースのドイツ子会社です。
米国戦闘機で最も多く生産されたのが
リパブリックP47サンダーボルト戦闘機で
1万5千機ほどですから如何に大量かという
ことです。
メッサーシュミットは複雑な経緯で
合併や分離を繰り返しますが
基本的に米国資本であり、社長は副総統ヘスに近く、政治的にも優遇されます。
ハインケル社がHe100という大変高性能な
戦闘機の量産試作を始めていましたが
これを政治的に不採用とし
メッサーシュミットBf109戦闘機が
主力戦闘機として採用されます。
戦後の生産も含めれば4万数千機を生産された
Bf109は大戦初期には世界的にメジャーな
戦闘機であり各国にも輸出されていました。
この会社の航空機部門は後に衰退しますが
自動車部門が大きくなり今日のBMW
となっています。
米国企業が如何にドイツの軍備を支えたか、
特に石油が取れないドイツがなぜ戦争できたのか、についてはまた別の話としましょう。
さて、ハーヴァル協定は発効後5年間は
うまく機能しません。
ユダヤ人パレスチナ移住政策を実行するのは
新設されたゲシュタポの担当ですが
創設者の空軍元帥ゲーリングはユンケルの
出身です。親族にたくさんいるユダヤ人を
追い出すわけにもいきません。
結局、当初5年間でドイツ在住ユダヤ人のうち
国外脱出したのはせいぜい2%ほど、
それも金持ちが自らの意志でブラジルや
エチオピアへあるいは規制が緩い日本の
統治下の上海へ移住していきました。
隣国ポーランドはドイツ以上にユダヤ排斥が
厳しく逆にポーランド在住ユダヤ人がドイツへ
逃れようとする状況です。
ドイツから移民というのは考えられません。
各国とも移民でやってきていきなり難民は
困るので十分な資金をもつ証拠として
通帳の写真を見せる等、入国審査には
厳しい条件があります。
ユダヤ排斥法で経済的に追い詰められていった
多くのユダヤ人は出たくても出れない状況でした。
この状況を一変させたのがアイヒマンです。
まず積極的にユダヤ狩り(強制収容)を
実行しようとしないゲーリングにゲシュタポから
手を引かせ、腹心をゲシュタポ長官に
送り込んだのが親衛隊ヒムラー長官です。
ヒムラーはゲシュタポ本部ユダヤ人課の
課長だったアイヒマンを現場に送り込みます。
1938年ドイツがパックスゲルマニカ政策の
実行としてオーストリーを併合するや
ゲシュタポウィーン支局長にアイヒマンを
任命します。
赴任後3ケ月でオーストリー在住ユダヤ人の
7割以上を強制収容し、私財没収の上、
次々にパレスチナへ送り込みます。
こうしてドイツのユダヤ人と言う意味の
アシュケナジーユダヤ6万人がアイヒマンに
よってパレスチナへ送り込まれました。
そこへ土地を購入する潤沢な資金が
米国シオニストから送金されていきます。
その後、アイヒマンはパリ支局長にご栄転、
ドイツ領となったパリを含むフランス北東部
(南西部はビシーフランスというドイツの
傀儡ながら名目上は独立国)でユダヤ狩りに
精を出し、この時、狩られる側だった
ハンナ・アーレントに大戦後にイスラエルで
開かれた自身を裁くアイヒマン裁判を傍聴され、
裁判の模様を米国の新聞社がルポとして
掲載することになります。
この記事は米国社会を騒然とさせます。
裁判に召喚されたユダヤ狩りに遭った
被害者たちは次々にシオニストを非難する
証言を行いました。
ユダヤ狩りをやったのはシオニストだ!
なぜ同朋を裏切るのか!!と。
ハンナ・アーレント本人がユダヤ人で
ユダヤ狩りの被害者であり、ハイデッガーの
弟子でも愛人でもあった聡明な哲学の
研究家でもあったという背景がなければ
とても掲載できるような内容では
ありませんでした。
裁判ではくたびれた初老のおじさんのように
容貌が激変したアイヒマンが
「私はただ命令に従っただけ、、」
ほとんどそれしか言わない覇気のなさに
「全体主義とは何も考えない小役人のような
人間が増えることで成立していく」という説と
なっていくのですが、アイヒマン自身の実態は
何も考えない小役人ではありません。
1939年5月には英国はパレスチナへの
ユダヤ人移住を禁止し4ケ月後にはドイツ軍の
ポーランド侵攻によって同盟国である
英国がドイツに宣戦布告、
こうなるとハーヴァル協定によって
ドイツ在住ユダヤ人をパレスチナに送ることは
できなくなります。
アイヒマンはドイツ領であるフランス北東部での
ユダヤ狩りで集めたユダヤ人を
ドイツ領の外だからという理由で平然と
フランス南西部のビシーフランスへ
移送しますが、これは当然
「いや、違うだろ」と顰蹙を浴びます。
でもパレスチナへ送れないんだから、
ドイツ領外へ送るのが何か問題か?
ビシーフランスが実質ドイツ領みたいなもの
というなら物理的に遠く離れたビシーフランス
の植民地ならいいだろう、そう考えないと
ドイツ領内でユダヤ狩りをやってドイツ領外へ
移住させるといっても世界中と戦争をやってるので
いったいどこへ送るのだ、ということになります。
そこでアイヒマンはユダヤ人を
ビシーフランス領マダガスカルへ送り込んで
ユダヤの王国を築かせればいいなど
画策を続けます。
この策はよく荒唐無稽で話にならないと
評されますが、そうではなく実際に日本参戦後、
日本海軍がマダガスカル周辺の制海権を掌握し
一気に現実味を帯びたのです。
ところが山本五十六が全軍に撤退を命じ
日本が自らインド洋西部の制海権を手放し、
またそのころにはユダヤ人の処遇に関する
方針変更があったためマダガスカルプランは
自然消滅していきます。
こうしてしばらくはユダヤ狩りを継続しつつ各地の
ゲットーに封じ込めます。なお強制収容所はすでに各地に建設されていましたが収容者のほとんどが初期はポーランド人、やがてロシア人が多くユダヤ人で強制収容所に送り込まれるのは一部だけでした。
1941年5月10日大事件が起こります。
ルドルフ・ヘスがメッシャーシュミット戦闘機を
自ら操縦し英国へ亡命を求めたのです。
折しもドイツ軍による英本土上陸作戦
ゼーライオン(アシカ)が実行される直前のこと、作戦の詳細を知る人物が英国に渡ったとなれば
作戦を中止せざるを得ません。
ここから6月にはバルバロッサ作戦発動により
ドイツ軍が突然ソ連に侵攻します。
直ちに東条英機がシベリアへ侵攻する決断を
するところすかさずビシーフランスが動き
日本海軍に直ちに仏印(フランス領インドシナ、今日のベトナムと周辺国)へ進駐させます。
すでに北ベトナム地域には1年前、
パリが陥落した1940年5月から2ケ月後に
日本海軍に進駐させており、
1941年6月ドイツ軍がロシアへ侵攻した
その翌月には南ベトナム地域へ進出させます。
そしてシンガポールやマラッカ海峡を日本海軍の
長距離爆撃機が作戦行動半径内に捉えたと
いうことでABCD包囲網が発動されます。
これによって東条英機に対ソ開戦を思い
とどまらせます。
Dはオランダのことでこの時ドイツ領です。
実はドイツが蘭印(インドネシア)への
日本軍進駐を「OK」と一言いえば日本は
米国の脅しに屈することなく
対米開戦の必要はなかったのです。
ドイツも大国米国を敵に回す必要はなかった
のです。 またマダガスカルに日本海軍航空隊の
進駐を認めていれば英連邦諸国は北アフリカや
インド方面の兵站を切断されてしまいます。
(まだ日英は開戦していませんが)
こうなるとロンメル将軍率いる
ドイツ北アフリカ軍団が中東まで進出し
石油資源を手にすることになります。
米国企業から石油製品を購入しながら米国と
戦争していくことになるドイツでしたが
立場がフリーになるわけです。
ところが実際には資源に乏しい仏印に日本海軍を
進出させて国際世論を大いに刺激する事態と
なります。
この辺りは日本を戦争にひきづりこむ策が次々に打たれていくのですが、そこは別の機会に。
ヘスが抜けたドイツ政府では状況が激変、
ユダヤ人大量虐殺へと舵を切ります。
ヘス逃走から7ケ月後にはパールハーバー空襲がありドイツも対米開戦に忙殺されますが
翌年1942年1月には幹部会を開催、
絶滅収容所を建設しガス室で大量虐殺する
方針が決定されます。
アイヒマンは書記係としてタイプを打って
議事録を作成するのが仕事で自分は
大量虐殺の方針決定に影響を与えていないと
裁判で証言していますが、彼の立場を考えれば
妥当なところでしょう。
重要な方針決定をするほどの地位にはなく、
かといって会議には事務方として呼ばれるくらいの位置にはいたということです。党内の序列は
上から数えて20番目の少し下という位置でした。
アイヒマンはユダヤ移送局長に任命され
大いにその才を振るいます。
アウシュビッツはユダヤ教の古い神殿がある
聖地でありロスチャイルド家の鉄道網も
アウシュビッツからヨーロッパ各地へ
伸びています。鉄道で収容するには好都合な
立地でした。しかもその古い神殿は
大量の生贄を求めます。
現在のロシア軍のウクライナ侵攻もそうですが
当時のヨーロッパの物流の主力は鉄道です。
軍需物資を前線に送る生命線です。
アイヒマンはその鉄道列車を自由に徴用する
権限をもっていました。
非情に複雑な鉄道ダイアグラムを自分で作成し
綿密な輸送計画を立て実行していったのです。
彼は有能な事務方として評価されていました。
1945年2月ヒムラー親衛隊長官はユダヤ
大量虐殺中止を命じます。
敗戦濃厚となり戦後の自分たちの処遇が悪くなる
からという理由です。
アイヒマンは裁判において
「自分は上官の命令に従っただけです。
軍人であれば誰もがそうするように」
と証言していますが、これは大嘘です。
アイヒマンは事実上の上官であるヒムラーの
命令を無視してユダヤ人を移送し続けます。
「自分は大量虐殺には直接かかわっていない」
とも証言していますが、それは絶滅収容所の
担当ではなかったということであって、
そこまで送り込む現場最高責任者です。
ガス室に送られなくても次々に命を落とす
過酷な環境へ移送を続けた、これが彼が
個人の判断としてやったことです。
相当、空気を読まない人物と思われますが
戦争中に軍用列車を徴用するわけですから
ドイツ軍全体を敵に回したようなものです。
ドイツ国防軍(陸軍)グーデリアン元帥は
自身ユンケルでもあり、あらゆる意味で
アイヒマンの暴走に苦虫を噛む思いだった
でしょうがアイヒマンにはそれだけの権限が
与えられていたのです。 周囲のあらゆる
顰蹙批判を受けてもそれでも気にせず
自らの職務を、それも中止命令が出たにも
かかわらず継続し続けたのです。
大戦後、収容所で生き延びたユダヤ人のうち、
西側が再収用したのが25万人、
ソ連にも多くが再収用されました。
1945年から独立承認の1948年までに
14万人のホロコースト生き残りユダヤ人が
パレスチナへ移住したとされます。
ここでもアイヒマンが「運ばせた」ユダヤ人の
多くがパレスチナへと移住したわけです。
ソ連はユダヤ人をパレスチナに大量移住させつつ
ロビー活動を展開し国連加盟国48ケ国の内
47ケ国の賛成をとりつけイスラエルを
国家として承認する決議がなされます。
この際、国境は決めず「イスラエル人が居住する
地域がイスラエル」となってしまいます。
なお、2012年までにソ連から移住したユダヤ人は123万人に達します。(人口990万人)
以来、各地からイスラエルへの移住が続きますが
一方でイスラエル人は周辺地域へ入植し続けます。
そして入植地はイスラエルであると主張します。 イスラエルの勢力拡大は周辺勢力との軍事力の
戦力比ではなくイスラエルによる入植ペースで
決まります。
ガザの状況は地図を見れば一目瞭然です。
西海岸以外は完全にイスラエルに周囲を囲まれ、
歴史的にユダヤ人が何度もやられてきたこと、
周囲を壁で囲んで出入りを禁止するゲットーに
住民を封じ閉じ込めています。
当然、海岸線のパトロールも厳しく陸の壁は
見上げるような高さで乗り越えられるものではなく出入口は厳重な検査があります。
この状況でどうやってハマスは武器弾薬を
補給できたか、です。
ハマスはイスラエル国防相が5千万ドルの予算を
計上して設立した福祉団体でした。
悪名高き米国援助組織USAIDも援助します。
トランプ大統領が最初に血祭にあげた組織です。
タリバンにコンドームを援助するという、、、確かに病気や妊娠を防ぐという人道上の見地
といえばそうなるのかもしれませんが、
そもそも使用を推奨しているという、、、
こういう組織が支えて当初ハマスは
物資を住民に配り続け人気を得ました。
そして突然、国連が乗り込み総選挙を実施し
ハマスが圧勝、アラブ系自治組織アル・ファタハの影響を排除します。
福祉団体が政権を担うようになりそして
ロケット砲を撃つようになります。
ハマスの攻撃に対してイスラエルが報復する、
ハマスがイスラエル住民を襲撃、誘拐するから
イスラエルが地上侵攻する
イスラエル側はこう主張してきたわけですが
どう考えてもイスラエルの許可なくロケット弾など大型物資をガザ地区に搬入することは
できないはずです。
イスラエルにとってガザはすでに自分たちの
親の世代等が収容された絶滅収容所状態に
追い込んでいます。
あとはひたすら入植を続け、入植計画に遅滞を
生じないよう住民の「処理」を済ませるだけです。
イスラエル国防相は盛んにガザに対して
「核兵器使用の考え」を示唆しましたが
そんなことをやるはずはありません。
自分たちが入植する予定地ですから。
かつての大国シリアも潰しました。
アサド政権が何とか持ち直しイスラエル侵攻に
備えて主力をシリア南部に集結させていたところ
米国民間軍事会社の雇い兵が北部アレッポ周辺で
活動を活発化させます。
シリアは精鋭部隊を南方から北部へ
移動させようとした際、イスラエル空軍は
全力規模の空爆を敢行シリア軍を壊滅させます。
地上部隊は移動する時が一番空爆に脆弱です。
あっという間に米国民間軍事会社雇兵部隊は
シリア全土を掌握、国難に際して英国で歯科医を
やっていたところを呼び戻されて大統領就任を
懇願されたアサド大統領でしたが、ついに
国外へ逃れました。
レバノンは南部を中心にヒズボラの精鋭部隊が
展開しこれまでにも何度となくイスラエル軍を
跳ね返してきましたがその資金源や兵站は
イランです。
イスラエルは長駆イランへ空爆を行い
可変式核弾頭B19-11(投弾直前に1~225キロトンの範囲で1キロトン単位で爆発力を調整可能、放射線拡散レベルを調整することで
「使い易い」核兵器と言われる)を搭載可能な
大型運搬兵器バンカーバスターGBU57
(コンクリート60メートル以上を貫通可能)
を搭載可能な本格的な地上攻撃機
F15EXスーパーストライクイーグルを90機
発注しています。
F15イーグル戦闘機は1970年ころ
ベトナム戦争当時に実戦配備された戦闘機ですが
スーパーストライクイーグルはエンジンも
刷新し長距離地上攻撃能力は桁違いに
性能向上しています。
とりあえず従来機でイランの石油関連施設への
空爆を行いながら米軍が戦略爆撃機B2を7機
投入し、14発のGBU57バンカーバスターで
イラン本土を攻撃しました。
これは予行演習のようなものでしょう。
近くイスラエル空軍は単独でもイラン心臓部を
徹底的に空爆できる能力を得ます。
イランまでは遠く、人口もすさまじく多く
流石のイスラエルも入植候補地はガザ、
パレスチナに続いてシリア、レバノンあたりまで。
イランまで入植する予定はありません。
イランに対して核兵器を使用してはいけない
理由は彼らにはないのです。
なおヨルダンはパレスチナへ入植を進める際に
パレスチナ難民を引き受けるという
イスラエルにとってありがたい国であり
ヨルダンには滅多に手を出しません。
イスラエルは必ずしもパレスチナ人の絶滅を
目的としているのではありません。
自分たちが入植していくのです、そして邪魔者は
追放し、出ていかなければ皆殺しにするのです。
正に自分たちがやられてきたことをやり
返しているのです。
イスラエルという国は正に歴史を繰り返し、
そう行動するような経験をさせられた人々を
送り込み建国されているのです。