藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。

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2009年01月05日

  

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2009.1.5.

何故、戦国の話を書いているのか、
一応、おさらい。

危機に直面し、情報を集め分析し、諜報を仕掛け、先手、先手と
手をうち、勝負どころでは、迅速に行動を起こす。
一度、筋目を決めたら最短最速で突き進み、
ぶれたり、揺らいだり、迷ったりはしない。 
戦争でも、がん治療でも、基本は同じです。
危機に遭遇して、うろたえたら、策を誤ります。
無駄な手をうちまくっても、却って結果は悪くなります。

で、秀吉については簡単に。

ヨーロッパの脅威に対して、
秀吉は、挙国一致で経済力・軍事力を増強、
正面対決を挑みます。

秀吉の場合、どうやって国を強くしたか、が、
ポイントであって、どうヨーロッパに
向かっていったかについては、がん治療への
取り組み方の参考にはならないですね。
たっぷり、お金を稼いで、治療効果を見る前に、
まずANK療法10クール分予約、
こういうやり方ですね。
全然、参考にはならないでしょう。

秀吉の時代、最も国内が統一され、大阪には、世界の金の
3分の1が集まったと言う説もあります。 大阪城は、もちろん
世界最大の城。 鉄砲生産量、世界一。 鉄鋼の質も最高。
あまり意味はありませんが、日本の動員可能兵力は、
イスパニアやポルトガルを敢然に凌駕しました。
武将・兵士の質も高く、宣教師たちは、こんな化け物連中とは
戦うべきではない、と、戦慄の報告書を本部に送っています。

免疫に関して言うなら、当時のヨーロッパの人は、
ちょっとした傷口から感染し、すぐ敗血症になって
死んでしまいます。  梅毒の大流行を繰り返し、
ペストの大流行で大惨事を経験してきましたが、
「免疫力」が相当、低下していたと考えられます。
ところが、日本の兵士は満身創痍となっても、
温泉で湯治すると、また槍や鉄砲をかついで
戦場に戻ってきます。 ろくに食べず、粗食に耐え、
動作は機敏で、とても器用、これはもう化け物なのです。

簡単といいながら、長くなってますが、
次いでに、宣教師が、がっかりして書いたレポートを
紹介しておきます。 「自分達は、神の教えを知る
優れた存在で、神を知らない未開の人々の目を開くために世界の
果てまでやってきた。 ところが、日本人は、自分達より
礼儀正しく、清潔で、とても賢い。 昼間から公衆の面前で
男女が平気で交わるのにはギョッとするが、これほど、
優れた文化、芸術、技術をもち、高度な精神を誇る人々に
一体、自分は、何を教える、というのだろう、、??」

信長は、関税・関所を撤廃し、人とお金の移動を容易にし、
また内部留保を溜め込んでしまい、マネーサプライを減少
させる仏教勢力から蓄積した資本を市場に放出させる、
など、経済活性化を促しました。

秀吉も、「ゼニが蔵から外に出たい、と言うとるんや」と、
蓄財よりも投資を奨励し、商団という、武家集団とは異なる結社、
ま、総合商社みたいなものを保護し、投資資金も集めてやります。
東南アジア全域に商団の船団が往来し、数百の日本人町が
所謂、戦国時代版大東亜共栄圏各地に建設され、その船団の一部は、
ジャワ島沖でオランダ艦と、またインド洋でイングランド艦と
砲火を交えた、という話まであります。 

秀吉は、イスパニア帝国フィリッペ二世に、「首を取りにいくから
洗って待ってろ」と、書簡を記し、博多の豪商、原田家が、
イスパニア、マニラ総督まで届けます。 

ユーラシア大陸の東の端にある「日、出ずる国」が、
西にある「陽の沈まない帝国」に、宣戦布告をしたのです。

まず、中国を統一し、橋頭堡とするべく、また、イスパニアの植民地に
なる前に先に取るべく、朝鮮には、軍勢を通過させるよう、要請。
したはずが、趣旨を取り違え、勝手に動く武将団の不一致から、
日朝双方にとって不毛の消耗戦となってしまいます。

秀吉の後継者問題から、必ず日本は内乱となり、日本軍による
ルソン島侵攻の危機は遠のく、マニラ総督は、そうフィリッペ二世に
報告しています。

1598年 8月18日 秀吉 没
1598年 9月13日 フィリッペ二世 没

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