藤井真則のブログ

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2016年10月09日

  

えとせとら

学校で教えられた「日本史」では、

突然、海の向こうから襲撃してきた

「弥生」。 そして、「世界史」では

弥生がまったく登場しない不思議 。。。

 

こういういい加減な授業は大嫌いだったので

自分で、世界史を調べていました。

 

何のことはない、教科書はいい加減でも

付属参考書には、おっ! というような

ことがいくつも書いてありました。

 

 

まず、弥生侵入のピークのころ

大陸で起こった事件といえば

何といっても、始皇帝の秦の勃興です。

 

これと弥生が関係ないはずありませんが

世界史の授業では、始皇帝が中国を統一し

ここに中国が始まる、、、などと教えられました。

 

その際、で、これが弥生とどう関係あるかについて

日本という国の義務教育の授業なのに

まったく教えられませんでした。

 

当時、中国3千年の歴史、などと言ってましたが

始皇帝からだと、2千年ちょっとの歴史になるはずです。

 

かなり、さばを読んでたわけですが、これが

4千年、さらには、5千年と、さしたる根拠もなく

適当に延ばされていきました。

 

他の地域で、もっと栄えていた古代文明の発掘調査が

進んだからです。 東アジアでは一番ふるいんだ、と

言いたいのでしょうが、

どんどん、数字だけ増やしていったのです。

 

黄河文明などという、さっぱり実態のない

単なる村がいくつかあっただけのものが

ピラミッドが並んでいるエジプトをはじめ

世界四大文明の一つに列せられる

というデタラメな話も

教えられました。

 

世界史の授業では、シン = CHIN だからな、

だから、中国なんだ、と教えられました。

え? なんで、CHIN が中国なわけ??

だって、CHINA だろ、チャイナ。

な、中国じゃないか。

 

と、こういう話で感動していた

同級生もいたような気がしますが

そもそも、この時代、英語は成立していません。

 

どう考えても、CHIN は

チュウゴク = 中国 にはならんのですが。。。

CHIN だから、支那にはなりますね。

 

シャブシャブというのは、もともと、日本食ではなく

中華料理ですが、スイスでは、フォンデュー・シナールとして

レストランででてくることがあります。

ドイツ語圏では、牛肉の超薄切りなんて、あんまりやりませんから

大変、珍しい料理ですが、シナ風フォンデューという意味ですね。

 

 

さて、始皇帝率いる秦の大軍団が弥生になったのではありません。

 

この時期、北方の草原地帯では、冒頓単于が遊牧民を束ね

匈奴と呼ばれた(例によって、本人たちが、何と呼んでいたかは

わかりません)軍事同盟が強勢を誇り、秦の大軍団を寄せ付けません。

 

この匈奴も、弥生ではありません。

 

あくまで、秦の大軍団の脅威に対して、

遊牧民が団結したものです。

 

当時、地球規模の寒冷化による世界規模の食糧危機により

民族大移動が世界各地で動き回っていたわけですが、

北欧に大挙侵入した「フン」が、匈奴と同じかどうかは

わかりません。 このころ、梅毒が北欧に持ち込まれ

猛威をふるったようです。

その後も何度か、大流行しますが

いずれも、食糧難の時期、大量の異民族の侵入により

ますます、厳しい状況になったとき、疫病がはやります。

梅毒の感染防止のため、風呂は、バスタブで個人毎に

入る風習が広がったとされています。

やがて、バイキングが梅毒をアメリカ大陸にもちこみ

さらに、時代が下って、コロンブスが逆輸入します。

 

 

さて、秦の始皇帝の大軍団は、中国の西の端にあった

弱小国に過ぎない秦が、突然、一念発起して、大軍団を

発した、ということになっているのですが、15年間

40万人と言われる大軍が、中国全土を走り回り

主力は、ペルシア式戦車隊という不思議な軍勢です。

表の歴史では、40万の大軍勢は、みな、生き埋めに

されたことになっているのですが、中国全土を席巻した

40万人もの精鋭戦士が、あっさり生き埋めになるもの

でしょうか、、、 抵抗しますよね、どう考えても。

 

日本列島の枠組みの中で日本史を教えられるから

いつも分けがわからず、突然、海の向こうから

何かやってくるのですが、中国という地域の枠組み

だけで中国史をみていると同じことに嵌って

しまいます。

 

世界史をみれば、この時期、アレキサンダー大王による

東征のインパクトが、ひたすら東へ進み続けていました。

大王本人は短命に終わりましたが、部下の将軍たちが

およそ100年にわたるディオドコイ(継承戦争)を

繰り広げ、セレウコス将軍がシリアを、

プトレマイオス将軍がエジプトを切り取り、

大王死後80年にして、今日のイランを中心に

超大国パルティアが興りました。

 

パルティアという超大国は、学校の授業では

一言もでてこなかったですが、付属資料に

しっかり載っており、なんで、こんな超大国について

一言の説明もしないのか、疑問に思っておりました。

 

パルティアは、

ローマ帝国の領土拡張を完璧に止めた

大国です。

さらには、首都ローマを軍事占領し

ローマにとっては、最大の脅威です。

だからこそ、表の歴史からは、なるべく

パルティアをはずしていったのです。

アレキサンダー大王、師匠のアリストテレス

詩人ホメロス、みんなトラキア人ですが

これが何となく、ギリシア人であったかのような

錯覚をする内容の授業でした。

 

フェニキア、スキタイ、ケルト、、、

文明をつくりだした民族は、

付属資料にはちゃんと載っていて

どうみても、彼らこそ歴史の主役に

見えるのですが、授業ではまず

何にも教えられず、ギリシア・ローマが

歴史の枢軸のように教えられました。

 

ギリシア人は、フェニキア人に対価を

払って神殿を建ててもらってましたが

やがて、「歴史」を発明します。

フェニキア人のアルファベットで

「つくり話」を書いてしまう

大発明をやってのけたのです。

 

ギリシアが泥棒なら、

ローマはその上を行く強盗です。

 

文明をつくりあげる人たちと

歴史を書いてしまう人たち

 

この構図は東アジアでもみられます。

 

 

 

さて、秦の始皇帝の軍団が

残したものといえば、兵馬俑ですが

あれはどうみても、ものすごく

素晴らしいものに見えます。

 

一方、万里の長城は、後世の作です。

 

これは、大きいといえば大きいのですが

はるかに、しょうもないものです。

 

世界史の授業では、秦の始皇帝が

北方騎馬民族の侵入を防ぐために

万里の長城を築いたという

つくり話を教えられましたが

当時、そんなものは存在しません。

 

マルコポーロの東方見聞録に

万里の長城が一言も言及されていない

理由については、諸説ありますが

簡単なことです。

存在しなかったのです。

 

始皇帝の秦が

中国の始まりだったという

話をつくってしまう過程で

お定まりの北方の野蛮人を

防ぐため、壁が必要だった

で、それは最初に始皇帝が

つくった、ということにしたのです。

 

騎馬軍団を編成するには

優れた工業技術が必要です。

そもそも、家どころか

都まで、「モバイル」な人たちですから

土木工事なんて、お手のものです。

壁なんて、簡単に超えてしまいますから

万里の長城に軍事上の意味は

ありません。

 

遊牧民が、遊牧の境界を示すために

高さ2メートルに石を積み上げた

道路の盛土のようなものを延々と

総延長数千キロにわたって築いたのですが

それは、秦の始皇帝の時代にもありました。

ただ、乗り越えるのは簡単なものです。

 

 

今日でも、秦の始皇帝軍団が残した遺跡は

各地にあります。

 

食肉加工工場跡です。

 

数百個の石臼が並んでいるのですが

見た感じ、バスタブの大きいもののようで

ただし、中は、少し丸みをもってくりぬいてある

だけです。 人がそのまま横たわってもまだ

余裕がある大きさです。

 

これ、骨ごとすりつぶして、ミートボールを

作るのに使われていたのです。。。。

 

何のミートボールかは、おおよそ、これまでの

文脈からご想像ください。

 

結果、当然ながら、この時期、

中国の人口は減ってしまったのですが

10分の1以下になってしまった、

という説もあります。

 

食糧危機でしたので。

 

 

40万人、食べるものがないから

パルティアを発して、中国に

食べ物を求めにきた、、、

それはわかりませんが、

当時の世界の情勢から考えると

人口の少ない中国の西の端っこから

大軍団が発生したという

学校で教えられた話より

東へ向かって進撃していた

パルティアが、少しいけば

中国なんですから、そのまま

突入して、15年間、暴れまくり、

どこかへ行ってしまった、、、

そう考えるのが自然に思えますが、

もちろん、証明することはできません。

 

 

さて、肝心の弥生ですが。

 

揚子江の中流域に

首狩り族がすんでいました。

今もいます。

首は狩らなくなったようですが。

 

揚子江に面した山腹に美しい棚田を

つくり、その水田で、ジャポニカ米を

栽培していました。

 

この人たちは、人食いではありましたが

大変、手間をかけて調理をします。

 

刺身、すき焼き、しゃぶしゃぶ、それに

塩漬けにして、少し醗酵させる スシ

まだまだあるのですが、まあ、やめときましょう。

こういうものを伝統料理とする人たちでした。

 

そこへ、一発でミートボールにしてしまう

自分たちを上回る猛者が攻め込んできたため

あわてて、逃げまどいます。

 

始皇帝の大軍団に正面から戦いを挑んでも

勝つ見込みはなく、水運を得意とする人たちですから

戦車軍団が苦手とする水の多い地域や

複雑な地形で守られる山地に避難していきます。

 

揚子江を下り、今度は海岸に沿って北上し

山東半島、遼東半島、朝鮮半島の先端部に上陸

そして、西日本へ大挙押しかけます。

 

この人たちのことを、日本史では弥生と

勝手に呼んでるわけです。

 

弥生と呼ばれた人たちは、自分たちのことを

何と呼んでいたかは、わかっています。

 

 

倭人と呼んでいました。

 

 

東アジア一帯に大勢力を張ることになる

倭人は、その後、魏志倭人伝の魏をはじめ

様々な国をつくることになります。

 

 

次回は、倭人物語について。

 

 

(つづく)

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