藤井真則のブログ

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2017年12月31日

  

えとせとら

2017.12.31.

 

 

 

日本の企業グループといえば

いわゆる財閥系3グループの

三菱、三井、住友

あるいは6大グループとされた

上記以外の芙蓉、旧一勧・伊藤忠、旧鈴木商店系

具体的企業名でいえば、

芙蓉グループは日産、丸紅、富士各社、日立など

旧第一勧銀系は企業数では非常に多く今日のみずほ銀系の多くなど

旧鈴木商店系は直系の日商岩井→双日、神戸製鋼、サッポロ、アサヒなど

 

ある程度、名前が知られていて昔からある企業は

大抵どこかのグループに属しています。

 

今日では銀行の大合併などにより

三菱以外の企業グループはグループとしての色合いが

薄れてきています。

 

江戸時代に遡るとこうした企業群のルーツの多くや

不動産・鉄道・百貨店など地域に根をはる

大丸、高島屋、西武なども含め

多くが近江商人やその取引先でした。

 

鴻池組は非常に古く古墳をつくっていたような時代から

住友も銅を掘り、精錬するのがルーツですが

これもどうやら古代からやっていたような。

三井は藤原氏と平氏が混血を繰り返して紡いできた

一族ですが江戸時代の母艦ビジネスは呉服商「越後屋」

時代劇でよく悪者にされたり強盗の標的になる

大店(おおだな)です。 越後屋は呉服を売るのは

現金定価販売、いわゆる「掛け値なし」を標榜して

それまで値段が交渉次第でどうなるかよくわからないものの

掛けで買うことができ、年内に決済ということで

師走は債権回収に商人が走りまわっていたのですが

掛け売りしないかわりに安く誰でも同じ値段という

やり方で一石を投じたわけですが、

一方で両替商ビジネスを

拡大し個人向けファイナンスに乗り出します。

 

書いていくときりがありませんが

新興IT企業以外は、ほとんどの大企業が

相当、長いルーツを持ちます。

 

その中で明治と共に突然現れ、巨大化した

代表格が三菱です。

 

 

よく三菱の発祥について聞かれるのですが

いや、普通に発表されてますけど、と

公表されているお話を説明することに

しています。

 

発祥の地は大阪。

 

実際、三菱系の工場は西日本に偏っているのですが

各社本社を丸の内に移したので「東京の企業グループ」

というイメージが定着しています。

 

当初は、「九十九商会」という名称で廻船業を

営んでいました。

 

船を買うにしろ借りるにしろとにかく貨物船を運用し

荷主様から預かった荷物を海上輸送する仕事です。

 

洋上で船と艀の間の積荷のやりとりをするのが

甲仲士、艀と波止場、桟橋の間の荷物のやりとりを

するのが乙仲士、沖仲士という言い方もありましたが

これは極めて危険な業務だった上、海外からの船舶の

積荷のやりとりをするのは密貿易につながるので

何かと特殊な世界に属していました。

 

廻船業者はあくまで船で積み荷を運ぶのが仕事。

陸地との積荷のやりとりは別の世界の人々の仕事とし

ここは線を引かれていました。

 

この乙仲士の総元締めが今日有名な組織になって

いますがそれは多くの人が知っている話であっても

書くわけにはいきません。

 

 

明治初期、ドル箱路線は大阪・神戸の港と東京・横浜の港の

間を積荷を運ぶ太平洋航路というか、まあ東海道沖航路ですね。

渋沢栄一のグループと三菱とが凌ぎを削って競合したと

伝えられています。

 

九十九商会が発展して三菱グループになっていきましたので

日本郵船の偉い方々は、うちが直系子孫なんだという

おっしゃり様をされることがありました。

確かに、日本郵船は三菱グループ首脳が定期的に会合する

金曜会の重鎮を座を占めます。

 

その後、大雑把にいうと製造部門が三菱重工、金融部門が

三菱銀行、国際部門+国内営業部門が三菱商事という

分け方になっていきますが実際はそんな単純ではありません

あくまでものすごく大雑把にいえば、というレベルの話です。

 

三菱自工などは株主構成が何度も大きく変わりましたが

三菱商事の子会社という位置付けで、かつては三菱重工の

子供という色合いが強かったです。

三菱化学や三菱電機も中核企業にあとからなっていった

元は外様系。 旭ガラス、東京海上なども当初から三菱

というより、合併や分割を繰り返す中でグループに

入っていったものです。 ニコン、コニカ、も三菱グループ

ライオン、明星食品、明治屋、星城石井、ローソン、

ケンタッキー、シェーキーズ、ドトール、味の民芸等は

三菱商事グループ、チキンラーメンはほとんどの業務に

三菱が関与してきましたが一応、製造企業は石田あゆみさんの

親族がかかわった独立ベンチャー企業。

日興は元三菱で今はSMBC、

ほか、明治生命、などいくらでもいますし

資生堂のようにまあ、三菱グループといってしまうとうん?

という感じもありますが、薄い三菱系の有名企業もいます。

三菱マテリアルはうちを抜かしてどうすんねん、という

重鎮です。 他に資産規模の大きさでいえば三菱地所。

 

グループ全体で日本のGDPのおおよそ3分の1を生み出し

日本のエネルギーの4割を供給し、日本人が口にする食糧の

4割以上を供給し、米国の輸出企業としてかつてナンバー1

今でもナンバー2という超巨大企業コングロマリットであり

世界市場の過半を押さえる商品を列挙すると膨大なリストに

なります。

 

なぜ船で荷物を運んでいた会社がこんなに巨大化したのでしょうか。

 

岩崎弥太郎さんの子孫は今でも会社にお勤めなのですか、と

よく聞かれました。 今は知りませんが、かつては

いらっしゃいましたね。 席は背中合わせでした。

なぜかブラジル関係のお仕事をされていました。

どういうわけかブラジルには日本から

沢山の移民が移住していかれましたが岩崎家もブラジルには

相当な縁があるようで、そういった背景から彼の地の国技である

サッカーを日本に普及させようと、サッカーそのものを日本に

持ち込んだのは日商岩井ですがダイヤモンドサッカーという

番組やら、まだまだ日本ではサッカーがメジャーでなかった

時代から普及に尽力していました。三浦カズ選手もブラジル人が

「パス」(移籍などの決定権をもちます)をかなりもっていましたが

奥さんのお父さんは私の上司でした。日韓合同開催のワールドカップ

招致委員会も事務局は三菱商事にあって社長が委員長をやってました。

 

さて、戦後の三菱商事と戦前の三菱商事は別の企業です。

 

いわゆるGHQ指令により三菱商事、三井物産、三菱重工の

三社は日本の戦争遂行に多大な貢献?があったということで

財閥解体令によって分割されたことになっています。

行き場のなくなった社員が集まって会社をおこすのは構わないが

旧部長以上の職だった者が二名以上集まってはいけないと

細かいルールが課せられました。

 

その後、そろそろほとぼりも冷めた、と大同団結が起こります。

バラバラに散っていた旧三菱商事社員たちに旧満州鉄道やら

他にも戦前のエリート社員を抱えていた企業の子孫たちが

結集します。その際、石油をアラブと取引するのにイスラエルとも

取引するのはまずいぞ、とか、産地が偏るリンを扱うのに

ヨルダン、シリア、レバノン等の鉱山を掘るのでその意味でも

イスラエルとの仕事は揉めることになる、キューバもカストロや

ゲバラ現役の時代はさすがにまずかろう、後は何といっても

北朝鮮との取引はまあ、何かと物議を呼ぶ、、、、

とにかく事業をする会社ですから政治・外交の揉め事は

回避してどこの国とも事業をやりたいわけですので

複雑な事情を抱える国との取引が得意な企業については、

大同合併せずに独立企業として存続しつづけました。

 

では旧三菱は消滅したのかというと

これはこれで存続していました。

公的に登記もされていましたので

公開されているわけですが

あまり一般報道などでは紹介されず

都市伝説のように噂話が広まってしまいましたので

いわゆるM資金と関連付けて語られることも

多かったようです。

旧三菱は資産管理会社として存続し

本店は元あった場所のままでした。

但し社員を抱えて事業展開する

ということはなかったようです。

 

 

で岩崎弥太郎氏は何をやっていた人か。

 

坂本龍馬が経営していた海援隊の

経理係、帳簿付け役です。

 

阿片戦争で大財を為したジャーディン

マセソン商会の代理店として武器を

日本に供給するグラバー商会。

この組織の船に英国製の武器を積んで

お客様にお届けするのが坂本龍馬らの

業務でした。 坂本龍馬暗殺後は

岩崎弥太郎が同じ役割を引き継ぎ

船と運転資金を与えられ

九十九商会を起ち上げました。

 

戦後三菱商事の本店は旧八重洲ビルに

登記されていましたが、ここは

八重洲ビル(その後、建替えられました)

といっても丸の内にありました。

徳川家康が重用したヤン・ヨーステンの

邸宅跡で、明治維新後はトーマスグラバーが

住み、毎日馬車にのって三菱各社の本社を

回っていました。

 

なお、キリンビールは、グラバー氏の子息が

興したもので三菱グループには入りましたが

少しルーツを異にしています。

 

 

ここまでは表の話。

公表されている話です。

 

 

この先も公開はされてはいるのですが

あんまり一般には報道などされなかった話。

 

 

明治維新を動かした人物の一人として

トーマスグラバーは欠かすことのできない

ピースであり、英国公使パークスや

超エリート諜報員アーネスト・サトー氏

そして決定的な役割を果たした

オランダ人フルベッキの動きを追わないと

全体像が見えてきません。

 

フルベッキ氏は自らがMBAを取得した

米国の経営大学院に数百名もの日本のエリートを

送り込み、日本の官僚機構を構築する人材を

大量育成したことで知られているほか

恩師であるフェーリス神父の名前が

港の見える丘に開校された有名な学校の

名前にも残っています。

 

 

来年は、こういった歴史の流れも

どんどん表に現われてくるでしょう。

 

 

 

それではみなさまよいお年を。

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