藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。

TOP > 倭人の正体 総集編

2020年05月24日

  

えとせとら

日本人の魂という10話シリーズをアップしていたのですが、圧倒的に第9話「倭人の正体」へのアクセスが多く、改めてタイトルを「倭人の正体」として10話全体を再編集しました。

 

「和」といえば「日本」のことというイメージが定着しています。和食=日本食 和服=日本の服 そして倭人=日本人 というイメージでしょう。 歴史的には「倭」と「日本」は同じではないどころか宿敵同士です。 江戸時代に両者の文化を大々的に再編集する文化大革命があったため、日本の伝統文化の歴史を紐解こうとするとおよそ400年前辺りまでは記録を辿れるのですが、その先は文書で書かれた資料が激減します。徹底した焚書坑儒が行われただけではなく、文化そのものが作り替えられたのです。

 

日本人に生まれ義務教育で「日本史」というものを教えられても、いつ、どのような経緯で、なぜ、「日本」と呼ばれる国になったのかは答えられませんでした。 720年に編纂されたという日本書紀というのがあるのですから、この時にはもう「日本」だったはずです。 それまでは、「ヤマト」という言葉がでてきます。 708年に編纂された古事記ではヤマトです。 魏志倭人伝をはじめ倭人という言葉もよく耳にします。大いなる倭で、大倭(ヤマト)と読みます。

 

倭寇というのもあれば「和をもって尊しとなす」とか、「和の精神」という言葉もあります。「ワ」だったのが、どこからか「日本」に化けています。

 

正式な歴史「正史」とされている日本書紀には、いつから、どのような経緯で「日本」という国になったかが書いてあります。

 

 663年  「大倭」(ヤマト)が「越」の国と「日本」を平定した。三国併せて「日本」と称するようになった。

 

 ヤマトと日本は、別の国であり、両者の中間には越の国というまた別の国があり、他にも小国はいくつもあったようですが、三大国の一つヤマトが遠征軍を派遣し、残りの二つの大国である「越」と「日本」を従えたという話になっています。 

 

なぜ、「負けた」国の国号が残り、「勝った」国の国号が消えたのでしょうか。

 

 「表の歴史」 が伝えるところの「大倭(ヤマト)」軍による「日本」侵攻作戦は、水軍で攻め込んだ、ということになっています。日本海を艦隊が北上した、とされています。まさに、「日本の海」日本海を進撃したのです。ヤマト側の総司令官は、阿倍比羅夫 (あべのひらふ)という人物ということで、古代史にはよく登場する有力氏族の名です。百済が滅亡し、高句麗本国滅亡が迫る緊迫した時期で白村江の戦いが行われたことになっている丁度その時、ヤマト連合艦隊第一艦隊「安曇野比羅夫」と第二艦隊「阿倍比羅夫」はそろって東北地方に進軍していたことになります。(安曇野比羅夫の方が歴史的にも重要な家柄であり、また実際に格上のようですが、阿倍比羅夫が中心になって進軍したような印象があります) 国運を懸けて臨んだはずの白村江の戦いに水軍の主力部隊は他の仕事をしていたので動員されていなかった、ということになります(白村江の戦いは総動員体制ではなく、吉備の兵を中心に近江の兵など一部の地域の兵だけが参戦しており、なぜか吉備の兵は多くが捕虜として生きて戻されている、そもそも現地側での考古学的な証拠が皆無で、本当に戦闘があったのか疑わしいなどなどはっきりしないことだらけです。) そして阿倍比羅夫は、「越」の国と「日本」を平定したことになっています。越の国とは、名前の通り、「越」前、「越」中、能登、「越」後、信濃の一部、今日の北陸~中部日本海地方、さらには、秋田の一部辺りまでということのようです。

古代から海上交通が栄え、江戸時代に入っても「北廻船」が経済の大動脈でした。なぜ、大坂と江戸を結ぶのに東海道沖ではなく、わざわざ日本海側から青森に出て商品を運んだのか子供心に疑問でしたが、明治維新より前までは日本海側が日本(現代の日本、ややこしいですね)の経済の中心地帯だったのです。そして古代、「日本」とは、津軽の国の国号でした。 かつての津軽は青森県と岩手県に秋田の一部を合わせた国でした。 坂上田村麻呂が作らせたという伝説が残る「ここが日本の中心」と書かれた石碑は今日でも青森県と岩手県の県境付近に立っており、日本から高句麗までの距離や、大和までの距離などが刻まれています。さて、「表の歴史」によると安部比羅夫が、越の国と津軽の国「日本」を平定し、ここにめでたく三国統一がなり新しい国の国号を「日本」とした、という流れになっているのです。 なお、この時点で、統一三国とはおおむね、青森~鹿児島 です。どのような激戦が展開されたのかというと北海道に進出していた大陸系の遊牧民と戦闘する記述はよくあり、越の国との戦闘記録もでてきますが「日本」については、宴会を開き、いや、これからは、共にやっていきましょう、とそういう記述が目につきます。ただ、能代の戦いは激烈を極めたという記録もあります。能代は秋田県の北、蒙古軍撃退の主力として大活躍した安東水軍の本拠地にもなった水軍の聖地のようなところです。水量が豊富な米代川の河口にあたり、この大河を上り阿仁街道と交差する辺りに鷹ノ巣があります。秋田杉の名産地で筏にして米代川を下る積み出し港である大きな津があります。阿仁街道沿いは物部氏発祥の地ともいわれ、古代より鉱工業が盛んな地で、鷹ノ巣には大艦隊を建造するのに必要な資材がすべて集結します。鷹ノ巣は世界最高純度の珪藻土を産するため、仕事で何度か行きました。日本のビールの精製に鷹ノ巣産の珪藻土は欠かせないのですが、他にも様々な用途で使われます。珪藻土の鉱土をそのまま四角く切り出したのが七輪で日本中に出荷されてきました。阿仁街道には今日でも利用されている良質の黒鉱(様々な金属の塊)が多く取れ、こういうのはいつから掘っているのか、地元の鉱山開発企業や金属工業関連の企業に聞いて回ると、1000年どころではないもっと古代からずっと鉱物を掘って精錬していたとおっしゃります。津軽より出雲へ進出した物部氏。阿仁街道沿いには大山(ダイセン)という地名もあります。

 

 

さて、話を戻します。安部比羅夫は自らの名を日本(津軽)の長(おさ)達に与え以後、それまでの日本、つまり統一三国の中で後々、京の都からみれば鬼門(東北)にあたる東北地方と呼ばれるようになる地域は安部氏が統べることになったとされています。鬼門とは朝廷が侵略しても抵抗をやめず、反撃してくる部族が多い東北方面と南西方面のことを言います。

ふつう、勝った方が、負けた方に名前を与える、そういうもんだと思いますし、実際、表の歴史においても一族の名前については、そうなっています。ところが、国号については負けた側の国号「日本」が統一国家の新しい国号となった、そういうことになっているのです。といっても、各資料は、断片しか伝えず矛盾も多く、また、現代の概念で、何月何日付けで「講和条約」を締結する、というわけではありません。本当のところはどうだったのかすっきりしたストーリーにはなっていません。「表の歴史」は、権力を掌握した勢力が後から都合よく書いてしまうのが世の常です。それでもヤマトだったのが日本に化けた、これは動かしようがない事実であり、津軽の国号が日本であったことも最近では、時々、TV番組などで紹介されるようになってきました。

 

学校で習った「日本史」ではまず、縄文という未開な人たちが住んでいた日本列島に弥生という進んだ文明をもった人たちがやってきた、こういう話になっておりましたが縄文文明が如何に先進的であったかは今日ではかなり知られるようになってきました。 縄文についての最新の研究成果が次々に公表されるようになってきた一方で、弥生については、意外に、どういう人たちであったか、あまり多くを語られていません。

 

これには、弥生人は、「人食い」であったというタブーもかかわっているようです。 また、当然、ふつうに考えれば倭人は弥生だったはずですが、実は、弥生の方が、よっぽど野蛮人だったというのは、表の歴史上、何かと都合が悪いようです。そして、学校で習った大和朝廷と蝦夷の戦いは野蛮な人たちの「反乱」だったというイメージで、これはまだまだ払拭されていないようです。ようやく最近になって、実は、蝦夷こそ「日本」であったという事実が、少しずつメディアにも登場するようになってきました。さて、免疫細胞ではなく、歴史の話ですのでつまり、本当の事実は、よくわからないものという大前提の上で、敢えて推測も交えて、シンプルに書かせていただきます。どう考えても「倭」より 「日本」の方が美しく、恰好よかったのです。

 

国号は「日本」にされ、歴史書も「倭書紀」ではなく「日本書紀」となりました。

 

権力を掌握した倭人は、自分たちの歴史をうやむやにし、まさに日本人の魂かがやく蝦夷たち、こういう言い方も倭人の言い方ですが真の日本人たちに憧れ、怖れを抱き高度な文明とすぐれた金属工業をわが物にせんとし徹底して侵略を繰り返し、戦争を望まぬ真の日本人の土地と幸せを奪っていったのです。 当然、表の歴史は、事実をうやむやにするほかはなかったのです。

 

改めて、学校で教わった日本史について整理してみますと、、、、 戦後は、「日本国」、明治維新後は「大日本帝国」と、国号に「日本」が使われています。その前の時代は、よくわかりません。倭寇はでてきても、「日本寇」は登場しません。あくまで、「倭(ワ)」なのです。「ジパング」の方が先にでてきます。

 

「日本書紀」は登場しますがその前に、唐突に登場した任那日本府の日本を除くと、まず「日本」はでてきません。そして「日本史」で教えるのはほとんどが、青森~鹿児島の範囲。小舟一艘でわたることができる朝鮮半島は「世界史」で扱われ、日本の歴史と「世界」の歴史のリンクについては明確に教えられることなく突然、元寇が襲来、とか、突然、黒船が来たんだ、とか、国外が関係する事件は、常に突発的に登場します。

 

 6世紀あたりから、ポツポツと人物の固有名詞やらが登場しはじめますが仁徳天皇陵や、倭五王武の巨大古墳群などおそらく、「日本?」が最も栄えたころで巨大な土木工事が各地で行われた4世紀末~5世紀前半の時代については、ほとんど何も教えられませんでした。時代が下り、聖徳太子などの蘇我氏が登場し、大化の改新飛鳥~奈良~平安 と時代が下っていくという流れの中で、日本の国家の基盤が築かれ、そのあとは、あんまり変わらない、、、、ま、実際、そうかもしれませんが、じゃ、その前の時代は? というと、ほぼ何も教えられていません。長い縄文時代が続き、そこへ紀元前3世紀をピークに弥生が侵入してきた、、、そのあとは、倭国大乱、邪馬台国に卑弥呼と古代史論争定番ネタが突出的に取り上げられその前後の話は、ほぼない、という授業でした。 ところで、卑弥呼はどこにいたのでしょうか。これは、今では、明確になっています。 どこにでもいたのです。「ヒメミコ」 女性の巫女さん、という普通名詞ですから、誰か特定の個人のことではなく、いたるところにいたのです。その中で、邪馬台国で、「卑弥呼」役の職業についていた人が、名前はわからないわけですが後世、大いに論争の種になった、ということです。

 

さて、弥生が侵入、それで片づけてしまってそのあとは、なぜか、「倭(ワ)」に化けるのですがよく渡来系という言葉もでてきます。倭人こそ、渡来系の権化のはずですが倭人を渡来系という言い方はしません。弥生はどこにいったのか。どこからきたのか。弥生人は全員、日本列島に引っ越して元の場所には残らなかったのか。世界史の授業に、「弥生」はでてきませんでした。豪快に話が、とんでいるのです。海の中から突然、現れたとでもいうのか。「進撃の弥生、いざ日本列島へ!」物語などが、世界史の中に登場しないのはおかしいです。こんなものを教えられて、こんな授業なんか信用できるか! と、子供心に憤慨しておりました。地域的にも日本史と世界史に区分しているやり方が気に入らなかったのですが、各時代のつながりも分断され、じゃ、弥生人はどうなったのか、の答えはどこにもなく、そもそも、日本史の授業なのに「日本」がほとんどでてこない。弥生、倭人、、縄文人は消滅したのか? 蝦夷と縄文人は同じなのかどうか。アイヌもでてくるけど。地理的にも時系列においても完全に分断されて、どこどこの何時代の歴史です、その前後や、周辺のことはなんにも教えない。こういう授業でした。  

 

 では、弥生とは、どこからきて、どのような人たちだったのでしょうか。日本列島以外にはいなかったのでしょうか。倭人はどこからきたのでしょうか。どういう人たちでしょうか。魏志倭人伝の解釈論が邪馬台国論争の土台でしたが、邪馬台国が九州にあろうが畿内にあろうが、どっちの論陣にしても論争の前提に大きな間違いがあります。魏という国。つくったのは倭人です。え? 日本人が中国に侵入して魏をつくったのか。違います。倭人は、日本列島の外にもいたるところにいたのです。魏志倭人伝は「倭人」の物語なのであって「日本人」の歴史に特化しているのではありません。日本人といっても明治維新までは諸民族の集合国家でした。歴史的にも、様々な人々が日本列島に渡ってきており大量移民もありました。大陸と陸続きだった時代には氷河の戻りで、ユーラシアの大半が数十メートルの氷に覆われた状況下、火山や世界最大の暖流が運ぶ熱など日本列島は、凍っていない真水のある非常に恵まれた地として、大型哺乳類の大群が押し渡り、それを追って大陸中の人々が殺到しました。日本人は超雑種なのです。日本列島として海に浮かぶ島となったあとも人々は海を越えてやってきました。やはり、暖流がぶつかる今日の和歌山県には人口が集中していた時期もありました。和歌山の南部(みなべ)という古代史によく登場する地に延べ1年ほど、住んでいたのですが古墳だらけで、それも海岸の岸壁の洞穴式など、相当、古いものが至るところにありました。気候は亜熱帯ですので、大梅林もあれば備長炭の産地としても有名です。温帯には生えてこない、とても硬い木ウバメガシが生えており、これで硬い炭をつくるのです。 うっかり、脛をコン! と当てると、呼吸ができないほどの激痛でした。ムカデも十数センチ、ゴキブリの大群もとんでもない大編隊で飛行し、一匹一匹も巨大です。日本は様々な気候があり、世界中の諸民族がやってきては住み続けました。

 

海洋民族などの移民などが落ち着いたその後、大量移民というと、弥生の侵入期、そしてヤマト、越の国、日本この三国が統一された頃である7世紀に巨大な人口の大波が日本列島に押し寄せています。百済、高句麗本国が滅亡後、両国の遺民が日本列島に押し寄せ、人口が10倍に膨れ上がったという説もあります。その後、大量移民はありませんので、そうなると、今日の日本人の祖先の9割は、百済、高句麗の遺民ということになります。 もっとも、天然痘がもたらされこれが大流行し、人口が激減します。そして、時代は少しさかのぼりますが古代日本が最も栄えていたであろう4世紀末~5世紀初めころ、西日本各地からそれまでほとんどでてこない馬の骨が大量に発掘されています。仁徳天皇陵をはじめ、巨大古墳群や巨大運河が建設されていく大きなインパクトがあったということですが学校で教える日本史が最も沈黙する時代です。 

さて、紀元前3世紀ころをピークとする弥生の侵入とはどのようなものだったのでしょうか。突然、海から襲ってきた後、どうなったか。弥生が侵入する前から、西日本の日本人勢力は著しく衰退していました。縄文人という風に学校では教えていましたがもちろん、縄文人が自分たちのことを縄文人と呼んだ可能性は限りなくありません。後世、地面の下から掘り出された土器の破片に縄目文様がついていたから、縄文と勝手に呼んでいるだけです。彼らは、自分たちのことを何と呼んでいたのか。わかりません。そういう意識もなかったかもしれません。アルファベットを発明したフェニキア人もアルファベットは、帳簿をつけるのに使ったのであって歴史などは書いていません。フェニキア人はフェニキア人のことを何と呼んだかはわかりません。ギリシア人にとって、フェニキア人とは自分たちより何をやっても優秀で常に、どこにいっても、先に来ている人たちでした。圧倒的に先進的な文明をもつ人たちを猛烈に妬み、文明・文化を奪い、機会をうかがっては殺そうとしましたがどんなにたたき殺しても、必ずよみがえってくる不死鳥フェニックスのような連中、ということでフェニキア人と呼ぶようになりました。弥生にいたっては、なぜ弥生なのか教えられた記憶はありませんし、海外からきたはずなのに、突然、日本史だけに登場し、すぐに名前が消えどうなったかは教えられませんでした。さて、弥生に限らず、紀元前3世紀というと地球規模の寒冷化が続いており、世界規模の飢饉が勃発していました。世界各地で、民族大移動の嵐が渦巻いていたのです。世界史と日本史を一緒に教えれば違和感ないのですが、別々にするから、日本史の授業では、「突然」脈絡もなく弥生が侵入するのです。

 

放っておくと、竹藪になる西日本では絶望的な食糧不足が続き、日本人は激減していたのです。東日本の野生種は、ブナやクヌギ、ナラなどです。保水力があり、秋には葉っぱが落ちる落葉樹が優勢です。藪になってしまう西日本より見通しが利き、狩猟には好都合の植生な上に、豊かな腐葉土が川や海を潤し大量のプランクトンを育み、貝類や小魚、さらには大型魚類などが集まってきます。寒冷化が進む状況でも、大量のサケが遡上してきた東日本では、それほど人口の減少はみられませんでした。弱り目に祟るように弥生の群れが次々に西日本に押し寄せ、日本人を圧倒します。どの集落が、どの時期に使われていたかを丹念に調査した考古学の報告によるとただでさえ激減していった西日本の集落は弥生集落の大群に飲み込まれ、ほぼ消滅していきます。しかも、出土する人骨を調べれば、自然死した人は稀だったようです。 基本的に、当時の人は、殺されて死んでおり、しかも、「調理」された跡が骨に残っています。自然死は一部の幸運な人だけだった状況は圧勝していたはずの弥生人も同様で弥生人は、日本人を食糧にしただけではなく自分たちも共食いしていたのです。もっとも、弥生という単一民族がいた、というより、結構、いろんな人々がごっちゃにいたようですが、ともかく食糧危機にあるのは同じで、大変、厳しい状況で何でも食べていたようです。狩猟民は自然と共に生きないと生きていけません。そう無茶な殺戮はやりませんし獲物にも敬意を払います。日本人の武器はいずれも小型で殺人用にはできていません。弥生の武器は殺人用の大型のものです。弥生は、農耕民ですから、自然を制御しようとし農耕する土地を確保しようと、他民族を殺戮し、所有します。人を殺し、人のものを盗む、奪う、こういう特性をもっています。千年の大木を切って、建物をたてれば苗を植え、千年後にその苗が大木に育つまで長持ちする建物にする、千年の計で森を育ててきた日本人。一夜にして、森林を焼きつくし、畑にしてしまう弥生人。両者が戦えば、どうなるか火を見るより明らかです。弥生は、自らに有利なように環境をつくりかえていきます。ところが、弥生の進撃は、濃尾平野でピタリと止まります。そこから先の森林はとても豊かで、日本人の人口も多く弥生人の侵攻を撃退したのです。紀元1世紀ころまで、両者は相いれず、殺戮の応酬が続きます。 ところが、1世紀のおわりころから、自然死したと考えられる人骨が増え、両者の文化の融合や交流がみられるようになります。豊かな自然に育まれた日本。どんな民族が世界中からやってきてもそれがたとえ、人食い弥生人であってもやがて、深い自然に受け容れられ、異質な文化を認め、融合する日本人の精神を宿すようになっていく、そういう傾向が垣間見られるようになっていきます。とはいえ、概ね、西は弥生中心、東は日本人中心、この構造の大枠は残り、その後、戊辰戦争や明治維新後の諸民族弾圧と歴史からの抹殺(単一民族国家と断定)まで、2000年に及ぶ戦いが続きます。

 

では、日本列島に押し渡った弥生人、どこからきたのでしょう。何のことはない、教科書はいい加減でも付属参考書には、おっ! というようなことがいくつも書いてありました。まず、弥生侵入のピークのころ大陸で起こった事件といえば何といっても、始皇帝の秦の勃興です。これと弥生が関係ないはずありませんが世界史の授業では、始皇帝が中国を統一しここに中国が始まる、などと教えられました。当時、中国3千年の歴史、などと言っていましたが始皇帝からだと、2千年ちょっとの歴史になるはずです。かなり、さばを読んでいたわけですが、これが4千年、さらには、5千年と、さしたる根拠もなく適当に延ばされていきました。他の地域で、もっと栄えていた古代文明の発掘調査が進んだからです。 東アジアでは一番古いんだ、と言いたいのでしょうが、どんどん、数字だけ増やしていったのです。黄河文明などという、さっぱり実態のない単なる村がいくつかあっただけのものが、ピラミッドが並んでいる古代エジプトと同格に扱われ、世界四大文明の一つに列せられるというデタラメな話も教えられました。世界史の授業では、シン = CHIN だからな、だから、チャイナ=中国なんだ、と教えられました。まだ英語が存在しないのでチャイナとは読まないはずですし、CHIN はチュウゴク = 中国 にはならんのですが。CHIN だから、支那にはなりますね。シャブシャブというのは、もともと、日本食ではありませんが、スイスでは、フォンデュー・シナールとしてレストランででてくることがあります。ドイツ語圏では、牛肉の超薄切りなんて、あんまりやりませんから大変、珍しい料理ですが、シナ風フォンデューという意味ですね。さて、始皇帝率いる秦の大軍団が弥生になったのではありません。この時期、北方の草原地帯では、冒頓単于が遊牧民を束ね匈奴と呼ばれた(例によって、本人たちが、何と呼んでいたかはわかりません)軍事同盟が強勢を誇り、秦の大軍団を寄せ付けません。この匈奴も、弥生ではありません。あくまで、秦の大軍団の脅威に対して、遊牧民が団結したものです。当時、地球規模の寒冷化による世界規模の食糧危機により民族大移動が世界各地で動き回っていたわけですが、北欧に大挙侵入した「フン」が、匈奴と同じかどうかはわかりません。 このころ、梅毒が北欧に持ち込まれ猛威をふるったようです。その後も何度か、大流行しますがいずれも、食糧難の時期、大量の異民族の侵入によりますます、厳しい状況になったとき、疫病がはやります。梅毒の感染防止のため、風呂は、バスタブで個人毎に入る風習が広がったとされています。やがて、バイキングが梅毒をアメリカ大陸にもちこみさらに、時代が下って、コロンブスが逆輸入します。

 

さて、秦の始皇帝の大軍団は、中国の西の端にあった弱小国に過ぎなかったのが、突然、一念発起して、大軍団を発した、ということになっています。15年間40万人と言われる大軍が、中国全土を走り回り主力はペルシア式戦車隊という不思議な軍勢です。表の歴史では、40万の大軍勢は、みな、生き埋めにされたことになっているのですが、中国全土を席巻した40万人もの精鋭戦士が、あっさり生き埋めになるものでしょうか。抵抗しますよね、どう考えても。日本列島の枠組みの中で日本史を教えられるからいつも分けがわからず、突然、海の向こうから何かやってくるのですが、中国という地域の枠組みだけで中国史をみていると同じことに嵌ってしまいます。世界史をみれば、この時期、アレキサンダー大王による東征のインパクトが、ひたすら東へ進み続けていました。大王本人は短命に終わりましたが、部下の将軍たちがおよそ100年にわたるディオドコイ(継承戦争)を繰り広げ、セレウコス将軍がシリアを、プトレマイオス将軍がエジプトを切り取り、大王死後80年にして、今日のイランを中心に超大国パルティアが興りました。パルティアという超大国は、学校の授業では一言もでてこなかったですが、付属資料にしっかり載っており、なんで、こんな超大国について一言の説明もしないのか、疑問に思っておりました。パルティアは、ローマ帝国の領土拡張を完璧に止めた大国です。さらには、首都ローマを軍事占領しローマにとっては、最大の脅威です。だからこそ、表の歴史からは、なるべくパルティアをはずしていったのです。アレキサンダー大王、師匠のアリストテレス、詩人ホメロス、みんなトラキア人ですがこれが何となく、ギリシア人であったかのような錯覚をする内容の授業でした。フェニキア、スキタイ、ケルト。文明をつくりだした民族は、付属資料にはちゃんと載っていてどうみても、彼らこそ歴史の主役に見えるのですが、授業ではまず何にも教えられず、ギリシア・ローマが歴史の枢軸のように教えられました。ギリシア人は、フェニキア人に対価を払って神殿を建ててもらっていましたがやがて、「歴史」を発明します。フェニキア人のアルファベットを使って「つくり話」を書いてしまう大発明をやってのけたのです。ギリシアが泥棒なら、ローマはその上を行く強盗です。文明をつくりあげる人たちと歴史を書いてしまう人たちこの構図は東アジアでもみられます。さて、秦の始皇帝の軍団が残したものといえば、兵馬俑ですがあれはどうみても、ものすごく素晴らしいものに見えます。一方、万里の長城は、後世の作です。これは、大きいといえば大きいのですがはるかに、しょうもないものです。世界史の授業では、秦の始皇帝が北方騎馬民族の侵入を防ぐために万里の長城を築いたというつくり話を教えられましたが当時、そんなものは存在しません。マルコポーロの東方見聞録に万里の長城が一言も言及されていない理由については、諸説ありますが簡単なことです。存在しなかったのです。始皇帝の秦が中国の始まりだったという話をつくってしまう過程でお定まりの北方の野蛮人を防ぐため、壁が必要だった。で、それは最初に始皇帝がつくった、ということにしたのです。騎馬軍団を編成するには優れた工業技術が必要です。そもそも、家どころか都まで、「モバイル」な人たちですから土木工事なんて、お手のものです。壁なんて、簡単に超えてしまいますから万里の長城に軍事上の意味はありません。遊牧民が、遊牧の境界を示すために高さ2メートルに石を積み上げた道路の盛土のようなものを総延長数千キロにわたって築いたのですがそれは、秦の始皇帝の時代にもありました。乗り越えるのは簡単なものです。ただ登るだけでも大変困難な絶壁の上にまでわざわざ2メートルの土手をつくっているところもありますが、この土手に軍事上の意味は皆無です。 あくまで「境界線」なので杓子定規にひたすら盛り続けたのです。そして草しか生えない広大な草原地帯の中でも、境界線というのはさらに辺鄙なところにありました。 

 

秦の始皇帝軍団が残した遺跡は兵馬俑の他にも各地にあります。食肉加工工場跡です。 数百個の石臼が並んでいるのですが見た感じ、バスタブの大きいもののようで、中は、少し丸みをもってくりぬいてあるだけです。 人がそのまま横たわってもまだ余裕がある大きさです。これ、骨ごとすりつぶして、ミートボールを作るのに使われていたのです。何のミートボールかは、おおよそ、これまでの文脈からご想像ください。結果、当然ながら、この時期、中国の人口は減ってしまったのですが10分の1以下になってしまった、という説もあります。食糧危機でしたので。40万人、食べるものがないからパルティアを発して、中国に食べ物を求めにきた、それはわかりませんが、当時の世界の情勢から考えると人口の少ない中国の西の端っこから大軍団が発生したという学校で教えられた話より東へ向かって進撃していたパルティアが、少しいけば中国なのですから、そのまま突入して、15年間、暴れまくり、どこかへ行ってしまった。そう考えるのが自然に思えますが、もちろん、証明することはできません。さて、肝心の弥生ですが。揚子江の中流域に首狩り族がすんでいました。今もいます。首は狩らなくなったようですが。揚子江に面した山腹に美しい棚田をつくり、その水田で、ジャポニカ米を栽培していました。この人たちは、人食いではありましたが大変、手間をかけて調理をします。刺身、すき焼き、しゃぶしゃぶ、それに塩漬けにして、少し醗酵させるスシ。まだまだあるのですが、まあ、やめときましょう。こういうものを伝統料理とする人たちでした。そこへ、一発でミートボールにしてしまう自分たちを上回る猛者が攻め込んできたためあわてて、逃げまどいます。始皇帝の大軍団に正面から戦いを挑んでも勝つ見込みはなく、水運を得意とする人たちですから戦車軍団が苦手とする水の多い地域や複雑な地形で守られる山地沿いに避難していきます。揚子江を下り、今度は海岸に沿って北上し山東半島、遼東半島、朝鮮半島の先端部に上陸。そして、西日本へ大挙押しかけます。この人たちのことを、日本史では弥生と勝手に呼んでいるわけです。弥生と呼ばれた人たちは、自分たちのことを何と呼んでいたかは、わかっています。倭人と呼んでいました。東アジア一帯に大勢力を張ることになる倭人は、その後、魏志倭人伝の魏や呉(ワと読みます)をはじめ様々な国をつくることになります。

 

倭人は文字で記録を残し「歴史を書く」のが仕事の人たちですから「歴史を創る」ものの「書かない」人たちの話より圧倒的に文献などが多くなります。「それは文献で確認できるのかね?」よく学者先生がおっしゃる言葉ですが極めて倭人的な物言い、です。都合のいい話を「歴史書」として書いたのですから文献を信じてくれれば都合のいい話の嘘がばれないわけです。もちろん、日本に渡来してきた倭人は日本人になっていったのですが渡来してくる前の状態はあまりに「えげつない」ものでした。日本は美しい自然に恵まれ四季の変化があり暖流と寒流は、各々、数多の幸を運び異なる流れがぶつかる潮目は豊かな海となり変化に富む植生は、多くの恵みをもたらし活発な火山はある時、火を噴きあげ災害をもたらしますが、あらゆる鉱物を与えてくれます。これほどの恵まれた地に暮らす人々はわずかな労働で生きる糧を得られ、土地に縛られず自由に動き、生き、交流し多様に富む文化は異質な人々を受け容れてきました。男と女の関係も、完全に自由でした。ルールは一つだけ、美しければいい。(関係が、です)というタッチで、日本人の魂を書き続けられればいいのですが寒冷化の波は何度も押し寄せ、その度に、食糧が足りず冬の間に、餓死する人がでてしまいます。その都度、生き方を変えることを強いられました。そして、世界規模の大寒冷化の波は大量の移民流入を招き、これがまた次元とスケールの違う食糧難に陥った大陸で培われた信じがたい残虐性を発揮する、とんでも集団でした。こうしたものが、長い時をかけ、あるところは融合し、ある面では未だに、過去の対立をひきずりながら今日に至っています。学校で教えられた歴史では、倭人の正体を隠し、日本列島侵攻作戦の最中だけ「弥生」と勝手に名前をつけ定着後は、弥生はどうなったのかわからない。しらあ~~~ と倭に戻っている。渡来系の中のザ・渡来人である倭人のことは渡来系とはいわず倭人以外の列島外から来た人々を「渡来系」と呼ぶようになっています。大陸に残った倭人については世界史の授業に登場し倭人とは呼ばず「中国人」と言ってのけていました。戦後できた国ですね、中国って。そんなもの、歴史上は存在しませんよ。中国人というのは、まあ、最近中国で生まれた人に、華人や華僑を加えたものというイメージができあがっていますが歴史的には様々な民族、それもほとんどが今日の中国人とはかなりルーツが異なる遊牧民がつくった王朝が乱立し1960年時点でもまだ主流派、漢民族の人口比は4割程度でした。これが、あっという間にほとんど100%に近く漢民族だらけになったわけで、それはもう弥生どころではないとんでもないことが文化大革命として行われたのですが。秦の始皇帝が中国を統一しそのあとは、ずっと中国なんだ、中国人の国なんだ、と思わせる授業だったと記憶しています。参考書には違うことが書いてありましたが。秦の始皇帝の軍団は、短期間で消え失せどうなったのかわかりません。当然、追っかけまわされ、逃げまどった倭人は、中国揚子江中下流域や沿岸部、各半島の先端部を中心に多数、残っていたのです。朝鮮半島にも、特に南部にはたくさんいたのですが朝鮮半島の歴史は、徹底的に軽視されほとんど何も教えられなかったです。馬韓・弁韓・辰韓、百済・新羅・高句麗あとはもう、高麗(こうらい)とか、李氏朝鮮とかポロッとでてくるだけで、大体、高句麗というのはそんなちっぽけな朝鮮半島の国ではなかったのですがこの地域の歴史だけに高句麗が含まれていました。そして突出して、「任那日本府」 これだけが授業では、大いに盛り上げる演出をされながら教え込まれた記憶があります。これは明らかにでっちあげです。倭だったのですから。大きい倭で 大倭(ヤマト)になっていましたが、当時の朝廷は日本ではなく、日本というのはもっと東あるいは、北の方角の別の国だったのです。と、日本書紀にも書いてあるにもかかわらず、大和朝廷の出先機関を日本府と言ってしまったのは無謀に過ぎました。任那ヤマト府とすべきでした。後日、袋にされ、最近では任那日本府など言わないようですが。なんで、こんな話をでっちあげたのか。それには高句麗好太王碑が大きくかかわっています。日本「列島」が最も輝いていたはずの4~5世紀。聖徳太子様ご登場のあとは人物名や事件など、具体的な話が「日本史」の授業に登場するようになりましたが4~5世紀についてはほとんど教えられませんでした。倭国大乱とか邪馬台国の卑弥呼の話から豪快に飛ばして、いきなり聖徳太子様ご登場です。それでも仁徳天皇陵の写真が載っていたり、これは世界最大の古墳、あくまで面積がですが、そういう注釈もあり、そういう名前の物凄い人がいたらしい、と思うわけですがさっぱり具体像が見えてきません。食べ物にも窮した民の実情を知り3年納税免除という逸話や仁徳という文字からして最高に素晴らしい指導者だった、そういうイメージがわきますが。もっとも「徳」がつくと安徳天皇のように、壇ノ浦に沈んだ、とか崇徳天皇のように、祟りまくった、とか考徳天皇のように、奥さんを、中大兄皇子に取られて(中大兄の妹ですが)、天皇なのに遺棄された難波宮においてけぼりにされた等、ろくな話が伝わっていない文字でもあります。聖徳太子も徳ですが、子孫である上宮王家はほとんど全員が焼き殺されたことになっています。あの巨大古墳、できた当時は、海の中からポツンと突き出していたそうですが大阪ですから、海外から船でやってきた人々にどやっ と。うちの国なめたらあかんで、と一発かましを入れる威容だったことでしょう。

 

倭の五王武巨大古墳群にしろ、仁徳天皇陵を含め、ほんとうのところ誰の墓で、いつ、つくられたか、となると、ろくに調査もされていないわけですが一応、近い時期に、集中的に巨大古墳群がつくられ、また、考古学調査によって5世紀の初めには、桂川やら、京都の大規模河川改修あるいは、運河造営の巨大土木事業が営まれたことがわかっています。京都水盆。琵琶湖に匹敵する膨大な量の水が溜まり湿地帯で人が住めなかった古代の京都に大運河を穿ち、水を流して、都の礎が築かれました。堀川は、今では小川ですが、かつては大運河でした。古代の祇園祭は、祇園の町自体が江戸時代になってからつくられたので、祇園祭という呼び方ではなかったはずですがともかく、7月24日・25日が本祭りで各地から船がでて烏丸御池に集まり、(当時は池ですから)堀川を下り、25日は、大阪渡邊の沖に大艦隊が集結、勇壮な艦隊機動が繰り広げられていました。7月17日というのはアララト山にノアの箱舟が漂着した日として有名ですが、祇園祭り本祭をはじめ、近畿地方の夏祭りが7月17日になったのは「最近」のことです。この数年、京都でも7月25日が本当の祭りの日ということで、少し催しを行うようになってきました。鴨川は、今日でも計算されつくした理想的な川幅、傾斜で、綺麗に敷き詰められた砂利の上をさざれ流れ、浄化された河川水が地下に染み込み、京都中、どこを掘ってもおいしい井戸水がのめる巨大な水道システムを構成しています。かつては、今日の烏丸御池を中心に、巨大な人工湖があり、今となっては、端っこだけ神泉苑として残っていますが、水圧をかけ、地下水脈の流れをつくっていたとされています。池の両端には宮殿、東洞院と西洞院がありました。平安京遷都は、京都に謎の都がつくられてからずいぶんと後になって行われたものです。すでに、日本で最初に建てられた五重の塔である八坂の塔がある東山から(焼失して立て直しているので現存する最古の五重の塔は法隆寺になります)、山の手に相当する油小路や東洞院通りなど、非常に古くからあったエリアにはもう都があったため、当初は、もっと西、低地になるため湿気が高い太秦を中心に平安京の中心部がつくられました。今日の御所は、江戸時代に造営されたものです。古代日本もっとも輝ける4~5世紀、なぜ、書かれた歴史は沈黙するのでしょうか。日本に世界最大の古墳がつくられた時代なんてどんなだったろうか、と、知りたいじゃないですか。ところが、書いてあるものがなかなか見つからない。

 

一応、6世紀のはじめ、513年にはじめて日本に漢字が伝わった、とされています。これは違うという説や記録もあります。 伝えた人の巨大な石棺が江戸時代にみつかり神社が建てられたのですが私の実家から歩いて1分ほどのところです。町の名前も1500年間、漢字を伝えた人の名前「応仁」に因んで大仁(だいにん)と呼ばれてきました。 つい50年ほど前に大淀になってしまいます。応仁はその後、和邇と名を変え、和邇家の邸宅の庭が熊野古道の出発点となるなど、畿内を中心に勢力をはり、重要拠点があった大津京の近くに今でも地名として残っていますが、更に名前を変えて葛井(フジイ)となります。あるいは藤井と記述するようになった一族は大和朝廷の出仕者名簿の2割以上を占める最大の一族となり蘇我氏や物部氏を上回る勢力となっていました。奈良や大阪の古代の中心地だった辺りを歩くと今でも藤井さんの大邸宅だらけです。うちは小さいのに、、、。 日本にはとっくに文字があったのですが書かれた歴史は、6世紀になるまで日本に文字がなかった、とし、だから、なあんにも書かれたものがないんだ、と教えられました。ということは、仁徳天皇もそうですが神武天皇にいたっては、生きていた時には名前は「音(オン)」だけで、死んでから何百年も経って、はい、こういう字をあてますね、とやったんだ、と認めるわけ、です。もちろん、天皇の称号は死後、きめられたわけですが普通、死後、ほどなくでしょう。何百年とういうのは無理がありますねえ。すごい記憶力ですね。亡くなって何百年も経った人のことをみんなで思いだしだし、ええと、そうだ「ジンム」さんだった、たしかそういう人がいたんだった、と口伝をたどりながら日本書紀を書いた、そういうことになりますね。513年まで日本に文字がなかった(この数字は実家が檀家の神社に伝わる伝承であって、通説とはいいがたいものがあります。) じゃどうやって708年とか720年に編纂とされる記紀は、何百年も前の文字のなかった時代の記録を記すことができたのか。つまり実際のところ、後からつくった話ですと堂々と認めているわけです。もっとも、ゼロからつくりあげた素晴らしい文学作品なのではなく実在していたはずの歴史書をネタに書かれ、都合よく編集し、種本の方は焼いてしまった、ということのようです。さて、漢字で歴史を書いてしまった人々は当初は圧勝でした。どこの誰が何をやろうと、「自分たちがやりました」と歴史書を書いてしまえば、後世、そういう話になっていきます。日本書紀も書かれてから百年伏され、書かれた当時、生きていた人がいなくなってから公開されたとされています。書いてすぐ公表したら文句の大バッシングとなりますから。ところが、本当のことを書く人もでてきます。歴史編纂を独占するため、徹底した焚書抗儒が行われます。これは、洋の東西を問わずどこでも行われます。さて、これをやりすぎると新たな問題がふいてでます。「君、それは文献で確認できるのか」あくまで、書かれた歴史が正しいそれも正史というのが一つだけあってあとは偽書だ。さらに「中国の文献」は正しい、朝鮮や日本の文献はいい加減だ、こういう風潮が目立っていました。「これは中国の文献で確認できる紛れもない事実だ」とあの国のどこがどう信用できるのか現代では全く通用しない口上となりましたが、私が子供のころはこのバカげた妄信が学会や大手メディアではまかり通っていたのです。文字がなかったはずの邪馬台国の時代のお話は魏志倭人伝という「中国」の歴史書に書かれているからだから正しい、と。(魏は倭人がつくった国であると冒頭に書かれている書ですが)では、4~5世紀日本の輝ける歴史は中国の文献とやらでは、何と書いてあるのでしょうか。これがなかなかないそうです。五胡十六国時代とされ遊牧民が跋扈したとしていますが、中国大陸に成立した国の大半は隋や唐、清など、みな遊牧民の王朝です。この時代に限ったことではありません。三国志に登場する魏、蜀、呉は4~5世紀より前の時代に相当しますが日本人がイメージする三国志というのは「三国志縁起」というせいぜい、200年ほど前に書かれた「歴史小説」に過ぎません。あの有名な物語は、あくまで「小説」なのです。 つまり大陸は大陸でかなりいい加減な歴史だということですがこの時代、何が問題とされたかというと「正しい」国の文献によって「日本国家の存在を証明できない」 ということです。文献なきところに歴史なしと決めつけてしまった上に焚書坑儒をやりすぎた結果国家の存在の証拠がなくなってしまったのです。そこで俄然、注目されたのが好太王碑の碑文です。ここに、まさにこの時代高句麗軍が倭人と戦ったそう記されています。東アジア最強を謳われた高句麗軍団。隋の大軍113万の内、精鋭の中軍45万をほぼ壊滅させ、帰還した兵は千余名であった、と記録にあります。兵士の名簿もかなり残っているので、この数字は概ね正しいのであろうと考えられています。かくして隋を滅亡に追い込み、唐の大軍も撃破し、唐の初代皇帝が討死という圧倒的な強さを誇った高句麗軍団ですが好太王時代というのは、隋や唐の軍勢を破った時代よりはるかに隆盛を極めた最盛期であり、高句麗の方が超大国だった時代です。その高句麗軍団と倭人が戦った記録。好太王碑の碑文は、満州に進出した関東軍によって、徹底的に研究されました。古代日本が最も栄えていたはずの4世紀末~5世紀巨大遺跡や、大運河建設のラッシュだった時代、大陸でも、日本国内でも書かれた歴史は沈黙します。大陸では、五胡十六国の乱とされ実際、戦国時代だったようですがこの時代に限らず大陸では、基本的に戦国の世が続いていました。中国を最初に統一したのはモンゴル帝国です。北京や上海もつくりました。それまでこの大都は村だったのです。その後、モンゴル帝国の元を乗っ取った大盗賊団がそのまま国になった大明帝国。そして明を破った清、最後に中華人民共和国。この3つの国は中国を統一していますがそれ以外に、統一国家と呼べるものは存在しません。歴史上、中国という国はほとんど存在しないのです。さて、この時期、古代日本国家存在のエビデンスとして好太王碑の碑文が、大々的に利用されたわけですが高句麗軍は、倭人と戦った、とあります。倭人は、大陸にも半島にも西日本にも、いたるところにいましたし、高句麗軍は、倭人の生息地の多くに進攻しています。好太王碑の碑文に高句麗軍が倭人と戦った、というのは当然の記述ということになるのですが倭人 = 日本人 というイメージつくりが行われ、日本に侵略してきたのは弥生人なぜか、弥生人はどこへ行ったのか歴史は語らず、いつのまにか日本は、倭の国になっており弥生人がやってきたはずの大陸には、弥生人という民族はみあたらず、中国人という歴史上は存在しない民族が、ずっと昔からいた、という話になっており、大陸のどこかしこに倭人がいた、というのは都合が悪いわけです。かといって、高句麗軍が、西日本を席巻した、という本当のことを認めるのも何かと都合が悪く、任那日本府という発明が為され、日本列島から朝鮮半島に進出していた倭人と、高句麗軍とが、半島で戦ったということにしたところ、当時はまだ畿内や九州などは、ヤマトであって、「日本」というのは、津軽の国の国号でした。任那ヤマト府ならともかく、日本府という言い方は辻褄があいません。今日では、任那日本府などという話は真面目に相手にされなくなっています。 さて、この高句麗、日本史や世界史の教科書では、ろくに語られませんが、その割には、好太王碑だけが突出して大きく扱われます。

 

高句麗というと、朝鮮の国と思っている日本人が多いほど、とことん、この国の歴史は、誤魔化されてきました。高句麗は、東アジアで、700年にわたり存続した、最大の強国です。モンゴル帝国(元)、大明帝国、清いずれも700年など足元にも及ばず滅んでいます。モンゴルは遊牧民がつくった国。大明帝国は漢族の国。清は満族の国であり遊牧民の国です。それより前の国は、群雄割拠の中でそれほど長続きしません。始皇帝の軍団は15年、隋は30年と短期間の間に、滅んでいるのです。高句麗は、漢に対する抵抗運動から興っていった国ですが、何せ、人が人を食糧とした時代、西日本でも、人骨には調理の跡がある時代、愛する人を守るために国を創った、のが高句麗建国なのですが人を守るというのは生半端なことではない時代のことです。強盗か泥棒か、でなければただ食糧にされてしまうとんでもない食糧危機下の戦国時代です。紀元前に中国遼寧省で建国された高句麗は概ね、満州を中心とし栄えます。朝鮮の国というのはかなり歪曲されたイメージです。書かれた歴史が一斉に沈黙する4世紀末~5世紀の初めというのは、高句麗の最盛期です。第19代広開土王好太王自ら率いる高句麗軍団は満州を拠点に、朝鮮半島へ進攻倭人経済の中心地であった楽浪郡を平定します。後に、楽浪郡の都であった平城に高句麗の都が移り、ここが最後の都となりましたので、何となく、高句麗は朝鮮の国のようなイメージで語られていくようになります。更に南の帯方郡も討ち、都である漢城(ソウル)を占領します。 漢城は、後に京城という字があてられるようになりますが、元々、漢城と書きました。 ここは、後漢が滅亡した後、漢王朝の末裔が本拠地とした都です。朝鮮半島南部にも高句麗軍は進攻しますが戦後、百済や新羅は存続します。更に、魏を討ち、華北を征圧。バイカル湖周辺には多数の高句麗遺跡が残っていますが、モンゴル高原から沿海州一帯、また中央アジアを西方へと勢力を拡大、最西端の高句麗古墳は、アフガニスタンで発見され早稲田大学が調査しています。その模様は同行された幻冬舎の編集におられた木村様に直接、お伺いしました。紛れもなく高句麗遺跡と判断されたそうです。日本にも高句麗遺跡は数多く残っており有名なのは高松塚古墳やキトラ古墳ですが、これらは5世紀よりももっと後につくられたものです。東アジア最大の強国が圧倒した時代、歴史を書く人々は沈黙し、この時代について書かれたものは、徹底した焚書坑儒に遭います。ということで、なかなか、文献ではわからず好太王碑の碑文も、肝心なところが削られおり判読できません。結論だけ申し上げると、高句麗軍団は、西日本を席巻。この時代に突然、大量に出土する馬の骨から、騎馬軍団の到来は想像されてきたわけですが、単なる侵略者ではなく京都の大規模な治水工事をはじめ、日本の国創りに多大な影響を及ぼしていきます。日本書紀では第19代広開土王好太王の子孫が「高麗(こま)」氏を名乗ったとしています。その後はどうなったのでしょうか。高句麗軍団は撤退し、百済や新羅と同じく大倭政権は、維持されたのか、あるいは高句麗軍占領地域となったのか。当時は、国境という概念は明確ではなく、人々は自由に行き来していました。どこからどこまでがどの国で、という現代の概念でみるとわからなくなってしまいます。軍団主力がどうなったかはわかりませんが多くの高句麗人が日本に住み続けます。平城に都を遷した高句麗本国では人口急増により、様々な問題が生じます。また、歴史を書く人々も逆襲に出ます。国を創るのは苦手でも、創られた国が大きくなると官僚として国の管理機構に入り込み、実権の掌握を狙うというのが歴史を書く人々の常套手段です。また、仏教を高句麗に広めます。これで国が弱ります。一般に仏教経済は、イスラム経済に駆逐されていきます。高僧は修行を積み、表向き質素な暮らしをすることになっていますが、労働をしないため、お布施を求めます。ところが、富が寺院に集中し過ぎ、これを市場に投資しないため、仏教経済は閉塞状態に陥っていきます。信長が断行したのは大寺院に蓄財された富を市場に放出させてマネーサプライを増加させること、それと同時に交易・流通を活発にする経済振興策でした。資本主義は金利によって、金融機関に富みが集中する構造をもちますが、イスラム経済は金利ゼロが原則であり交易を重んじ、活発な経済活動を促進します。そのため、かつて仏教国であった地域は大半がイスラム化し、今日でも仏教が主流といえるのはタイや日本の他、一握りの国だけです。そういう経済上の問題もあるのですが、国としての一体よりも民が個人個人の幸せや救済だけを望み、国力衰退の一因となっていきます。日本の仏教も、高句麗から伝わってきました。お寺といえば、五重の塔が建っていますが五重の塔は、本来、仏教とは何の関係もありません。高句麗文化の象徴であり、天へ天へと伸びる樹「いだき」を表わすものです。 五重の塔という文化をもつ高句麗に仏教が入ってきたため、高句麗の仏教寺院は五重の塔を建てるようになっています。これがセットで日本に入ってきたため、日本では、お寺、少なくともある程度の規模があるお寺と言えば、五重の塔がつきものになっています。五重の塔には非常に高度な建築技術、木工技術、金属加工技術、瓦の焼成技術、顔料や塗料の調合など複合的な産業技術体系が用いられており、実際に当時使われた登り窯の遺跡などを見て回りましたが、五重の塔は日本の産業基盤の基礎を築いていくことになります。なお、日本に建てられた最初の五重の塔、京都にある八坂の塔の耐震構造は日本で二番目に高いスカイツリーの設計に採り入れられています。一方、学校で教えられた歴史では遣隋使を送って、隋の優れた文化・文明を導入して日本という国をつくった、としていました。ほぼ作り話です。第一次遣隋使は隋の煬帝に謁見していますが有名な「日出る国の天子、、、、 」という名文は高句麗高僧 慧慈が書き上げ、奏上したもの。あんなことを隋の大帝に奏上すれば普通ならその場で首が飛びますが、高句麗高僧を殺す訳にはいかず、煬帝もその場では手を出せません。帰路、この使節団は武装集団の襲撃を受け煬帝の返書は紛失したことになっています。そして、5年後、隋の大軍113万人の戦闘員が高句麗に侵攻し、高句麗軍に徹底して撃破され、ほぼ全滅に陥り隋は滅亡へと向かいます。こういう状況ですから、遣隋使が文化とか文明を持ち帰るような余裕はありません。その後、遣隋使や遣唐使の発令は何度もありましたが実際に行ってきた人は、ごくごく一部で、ほとんどが名前だけで、出発もしていません。隋や唐から文化・文明を教えてもらったというのは後世の作り話で、具体性はありません。一方、高句麗の足跡は至るところに残っています。日本国は、単一民族国家であるということにしてしまったのは、せいぜい明治時代です。それまでは、様々な民族が互いに独自性を守りながら生きてきました。韓国人は、当然、第二次大戦後に発生した概念です。大戦前に、韓国という国はなかったのですから。特定民族を表す意味での北朝鮮人という言い方はしません。北朝鮮という国の人という意味で北朝鮮人ということはありますが、民族としては朝鮮人というイメージです。中国人というのも、ごく最近の概念です。清という国は、遼寧省桓仁県五女山城にて挙兵した高祖ヌルハチが興した国ですが、満族の王朝であり、漢族はかなり明確な差別を受けていました。これは教科書にも載っていました。髪の形を漢風から満風に強制させる辮髪令が図入りで紹介されていました。ともかく両者を一緒に中国人とは呼びません。中華人民共和国が誕生したのは戦後ですが当初、漢族の比率は多めにみても4割でした。もちろん正確な数字はわかりませんし、そもそも総人口の数字からしてあてにはなりません。 あくまでよく言われている話ということですが、漢族が人口爆発を起こして急増し今日では、ほとんど漢族とされています。実際には、東北三省に行けば、満族や朝鮮族を称する人々がたくさんいます。民族は、時代によってうつろい、融合し、独自性を強めたり、弱めたり、そもそも個人差もあり、今一つ、とらえどころのない曖昧な概念ではありますが、そうはいっても、特定民族共通の特定行動様式であるエートスというものは、やはりあると考えられています。

 

日本列島の歴史においてもユーラシア大陸のほとんどが分厚い氷河に覆いつくされた時期に真水が豊富にあり、世界中から人々が集まった大陸と陸続きだった時代(BC60~BC56世紀ころ)、孤島の時代、やがて海路、人々が集まりはじめ和歌山県に人口が集中していた時代(BC30世紀ころ)。 BC6世紀からポチポチと始まり、BC3世紀ころピークを迎える倭人の襲来(弥生時代)、人口の10倍規模の大量移民が流れ込んだ時代(7世紀、高句麗、百済遺民の大量流入)を経て、それ以後は、大きな移民はありません。現存する日本人の多くのルーツは、高句麗、百済にあり、一部の人は倭人にあり、さらに一部の人は、倭人襲来前から日本列島にいた人という理屈になりますが、人は動いたり混血したり、文化を変えたり、特定の集団の人口が急増したりしますので、一概にこうだ、ということは言えません。さて、日本列島に大挙、襲来し、西日本を席巻、そこにいた人々を尽く食糧にしてしまった倭人は、仲間同士でも共食いを繰り広げたようですが、当時は、全地球規模の寒冷化による異常な食糧危機状態であり世界中、民族大移動、大量虐殺、日常的な食人が横行していたどうしようもない暗黒の時代です。西日本でも、1世紀になると、食人の習慣は一部の儀式を除いて一般的ではなくなっていき、多くの人々が自然死する時代を迎えています。倭人の食糧調達の主たる手段は水田でのジャポニカ米の栽培です。ルーツである揚子江中流域では今日でも美しい棚田が見られますが日本や朝鮮半島では堆積平野にも、水田を開墾するようになります。 田んぼでも使える牛を多用し牛肉もよく食べます。 好物は、当たり障りのないところでいうとすき焼き、しゃぶしゃぶ です。 日本の代表料理として、外国人に勧める料理といえば実際に一番、よろこばれるのは鉄板焼きですが、すき焼き、しゃぶしゃぶ、寿司、てんぷら、というのが相場でした。てんぷらはポルトガル料理であり日本では永く、牛肉は食べなかったのに、なんで、すき焼き、しゃぶしゃぶが日本料理なのか。倭人の基本食の一つであり、大陸や半島では食べ続けていたのです。寿司もそうですが。ヨーロッパでは、しゃぶしゃぶはフォンデューシナール(シナ風フォンデュー)と呼ばれヨーロッパに定着した代表的倭人料理の一つです。 日本でも、倭人の影響力が強くなった時代には、すっと大陸から入り込んでくるのです。寿司は倭人の代表的保存食であり、大陸では、ごく最近まで食されていました。寿司のルーツは日本では大っぴらに語られませんが、日本書紀にも登場します。大津の鮒ずしは、大津京が日本の都だった時代、時の政権は倭人政権だったので、寿司を食べていたのです。実際に都としたのは高句麗滅亡から日本古代史最大の決戦壬申の乱までの4年間のうち、3年間だけですが。この間、大津京(今の大津駅ではなく、和邇駅に近い湖西の南部です)に籠った倭人派は中大兄皇子の縁者が中心ですが、中大兄皇子は、高句麗好太王の子孫とされる高麗氏の女性と蘇我稲目から始まった蘇我氏の子孫で蘇我山田麻呂を寿司(酸と書きます)にして食べてしまったと日本書紀で紹介されている人々です。その後、食材を、かなり問題のあるものから鮒に変えたため、大津から鮒ずしが、寿司のルーツとして広がっていったことになっているのですが、大陸では、当たり前に元祖「寿司」を食べ続けていました。日本書紀では、重要な政変に関連する人物の素性を表す際に、寿司が登場する場面は他にもあります。倭人は、農耕を生業とする民族でしたから基本的に残虐な儀式を執り行います。現代人は、米はスーパーやコンビニで売っているものだと思っています。 一部の研究者だけが、あんなものどうやって品種を確立したのかと仰天しています。今日、日常的に食べている植物の大半はどうやっても食べようがない原種から、気の遠くなるような複雑で難しく時間がかかり中間プロセスでは何の役にも立たない雄性不稔種(自然受粉をさせずにすべて人工授粉で確実に掛け合わせを行うため、オシベができない株をつくります)をつくるなどなど最初からどうやればいいかを知っていないととてもできない工程を経て品種改良され栽培植物となっているのです。神業としか言いようがなくやっぱり人類の進化には何か外からのインパクトがあった、という話に真実味を醸し出すのです。古代人は、自分たちの能力では田んぼをつくる技術を開発したり、野生のどうにも食えない原種を人間が食べることができる栽培植物に変えてしまうような知恵がないことはよく分かっていたようです。 高度な鉄の技術や測量技術、木工・土木技術を駆使しないと水田の開墾はできません。大量の良質な鉄器がいるのです、原野から水田をつくるには。そして、自分たちでは到底、想像もつかないような複雑な工程通りに、農作業に従事し、冬、飢えて死んだりしない穀物を得られることに、感謝の儀式を執り行っていました。現代人は、天候に左右される原始的な農耕の時代には御てんと様が、ちゃんと日光を注ぎ、程よく雨も降り台風もこないで、と、単に天候がよき収穫をもたらす都合のいいものになってくれる様にと祈りを捧げていたんだと思うようですが、そもそも、栽培植物の品種確立や開墾を含めた農法そのものが、理解を超えたものであり、これらをもたらしてくれた何者かに感謝の気持ちを表したのです。現代では、勤労感謝の日などと言いますが元は、謝肉祭だったのです。「何か」に感謝して、自分たちの肉を捧げたのです。もう少し正確に言うと自分たちの心臓を捧げたのです。やがて生首を捧げるようになります。古い時代の正教のフレスコ画では聖人は首だけが描かれ、たくさんの首に羽が生えて黄金の光のリングが頭の上で輝いているように描かれています。世界各地の「聖なる」絵を実際にみてきましたが一応「生首」はニコニコしていて聖なる存在という風に書いてはあるのですが、どうみても生首が空を飛んでいるので異様な感じはぬぐえません。 実際に聖人というのは自分の生首を捧げていたようです。 ヨーロッパのケルト人も修行を積んで聖なる存在に近づけたと考えられる人物は人望がないとダメなようですが、自ら進み出て認められると大樹の根本で首をはねられ、その首は大樹の枝にぶら下げられました。 「何か」によってもたらされた恵みに対するお礼として、です。 後世、19世紀のことですがクリスマスの風習が「発明」された際に、生首の代わりに光る玉をモミの木にぶら下げる習慣が考案され、今日に続いています。 キリストのお祝いになんで生首なのかと思われるかもしれませんが、そもそもイエス様は生贄として十字架にかかり「捧げられた」のです。古代、世界各地で当たり前に見られた生贄の儀式。 流石に、それはいやだ、というものすごく当たり前の感情が強くなり、徐々に、一番、味が似ている牛肉を替わりにするようになりますが、砂漠の場合牛は極めて貴重であり、羊で構わないことにされていきます。旧約聖書ではアブラハムが子のイサクの心臓を取出し、体の残りを焼き尽くして捧げる、つまり焼き尽くすというのは自分で食べるのではなく、余すところなく捧げるということですが、現代人の感覚でいうと想像もできない理不尽な要求、古代人にとってはごく当然の要求を受け入れ、いざアブラハムが自らの子の体を裂こうとした時、お前の信仰は証明された、生贄にはあの羊を代わりに使えばいい、と示されます。 以来、牛は貴重、豚はそもそもあまりいない乾燥地帯では羊を人の代わりに捧げるようになります。 たとえ話なのではないのです。倭人の場合、重要なのは収穫への感謝よりも田植え前の儀式です。農閑期、5人組が遠征にでかけます。そもそも倭人は、小さなうちから子供は親元を離れおおよそ年齢が近い男同士、女同士で共同生活を営みます。男組、女組に分かれて、互いに色仕掛けを掛け合うのですが、この風習を実際に経験した人がまだこの国にはご生存です。地方によってはずっと残っていたのです。ここから先に書く話は最近まで残っていたのではありませんが。古代、農閑期の「出撃」には悲壮感が漂います。獲物を持ち帰らないといけないからです。ご近所だと、血縁者の可能性が高いので遠征する必要があり、そうなると、完全な敵地となり自分たちを獲物として狙う敵の数が増えてきます。獲物がなければまっすぐ、村に帰ればいいのです。儀式が中止になることはなりません。自分の首が使われます。営業成績が悪いと、文字通り、クビにされるのです。持ち帰った獲物は、田植え前の決まった時期に決まった場所に建てられた高い棒の先に決まった方角を向いて、クビだけが捧げられます。 こうして、豊作を祈念するのです。日本列島に押し寄せたころは儀式どころではない最悪の状況だったのですが、西日本に定着後も儀式は継続されました。とんでもないお話が、民話や、中には今昔物語などで語られ、うちの母方も中国地方の真ん中ですのでとんでもな話が、代々、今日まで伝わっています。その一つ、今昔物語にも登場する「白羽の矢」伝説が1695年、岡山市藤崎で実際に実行された記録があります。 暴れ川であった旭川を鎮めるため、バイパス運河として百間川が穿たれ、その際、天に向けて放たれた白羽の矢が落ち、家の屋根に当たってしまった沖田姫を埋めた場所には、今も、ボロボロの祠が残っています。あれは見ただけで悲しい気持ちに沈んでしまいますが夜は絶対に近づきたくない不気味な真っ黒な祠で、如何にも、治水工事の要という水路の分岐点の先端にあります。八つ墓村は、映画で有名になりましたが、小説や映画は戦国時代から後の話です。あれ、実話を元にしているのですがほんとの実話は、戦国時代より前、もっとえげつない儀式が執り行われていたのです。今では、村の名前も変えられていますが、その名に名残は残っています。地元の人はいやでしょうから、名前は書きませんが。

 

さて、どう考えても、こういう民族が大和朝廷を打ち建てたのであれば、およそ平和で幸せな国にはなりそうにないですが3~5世紀、東アジア全体で、倭人は高句麗の大攻勢を受け圧迫されていましたので、日本でも大人しくしていたようです。日本列島ではもっとも巨大な遺跡が建造された時期ですが日本でも半島でも大陸でもどこであっても東アジア各地で徹底して書かれた歴史が消された時代です。6世紀ころ、静岡県辺りまでが、「東北」地方でした。おそらく朝廷にとっては、外国だったのです。 

 

8世紀に入って、俄然、東と北への侵略を激化します。 高句麗本国が滅び、迎えた奈良時代~平安時代は、倭人の進撃の時代でした。 東北の豊かな鉱物資源、高度な探鉱・精錬技術、特に日本刀に代表される強力な武具や戦には欠かせない強い軍馬、美しい絹や漆、大量に産出する金や水銀など朝廷がほしがる高度な文明や文化、産物などが東北には沢山ありました。戦争を前提にしないで、千年の計で森を育てる東北の人々に対し一夜にして森を焼き払う倭人が、人数を頼りに、執拗に攻撃をつづけ、いくら騎馬隊に完敗を喫しても、あくまでも侵略を続け、環境を破壊することで、追い詰めていったのです。では、大陸の倭人はどうなったのでしょうか。倭人は、大陸に沢山いたから、日本に攻めてきたのです。 弥生とか訳の分からない名前で誤魔化しても、倭人は大陸にも日本にもいたのです。大陸の倭人の中から独特の文化・政治様式を打ち建てた一団が現れ、自らを、「漢」と称します。漢字を発明した「夏」という国の末裔なんだという話を熱心につくり、漢字つくったから「漢」というイメージで、自分たちのルーツの正当性を主張し始めます。今日では、揚子江中流域で棚田をつくり続ける元祖倭人はかなりマイナーな少数民族として、歴史の表舞台からは消されています。やがて、日本の歴史からは、大陸の倭人は消され大陸の歴史では、「漢」が全面にでてきて倭人は徐々にフェードアウトし、さらに、中国人なる新しいイメージが定着してきました。西域より中国へ侵攻した秦の始皇帝軍団は猛威を振るい中国各地で片っ端から人々を捕まえては食糧としてしまいました。遊牧民は匈奴として結集しこの軍団を跳ね返しますが騎馬隊をもたない倭人などは抗すべくもなく、圧倒されてしまいます。一部は、西日本を荒らしまわり濃尾平野より西にいた縄文人を「消滅」させました。元祖倭人は、一部は、そのまま山中に潜みあるいは、揚子江を下り、沿岸部に広がり始皇帝のペルシア式戦車軍団が動きにくい地域へと逃げ延びていきました。この時期、中国の人口が一桁減ったとする説もありますが、もちろん正確に調査することは難しいものがあります。一方、倭人は巧妙な生き残り策を弄します。秦の軍団に協力するのです。こうして、秦の支配下として臣従する者も多数でてきました。

 

さて、召集令状をもらってしまった倭人で、名前もよくわからないのですが「劉さんちの小倅」と呼ばれていた人、劉李さん。 「りゅうい」と読みます。 李は「イ」と発音し、末っ子という意味です。 この人、任地に急いでいました。 ところが、どうにも間に合いそうにありません。 刻限に遅れれば、即、処刑です。始皇帝軍団の石臼で潰されミートボールにされたくない人々はせいぜい、十数人だったとされていますが劉李さん以下、みんなで脱走を図ることとし山中へ逃げ隠れします。急激な寒冷化による悲惨な食糧危機の時代。文字通り、食うか食われるかの時代。生きていくのは容易ではありません。どうせ、殺されるのなら、今日、1日でも生き延びた方がいい、泥棒集団と化した劉さんちの小倅たちは食糧を盗み、自分たちより弱い者を襲い、どうにか飢えを凌いで、生き延びました。ところが、秦の軍団は、あっという間に衰え、残党や劉李さんみたいに召集された者たちが軍団や、役人をやってはいましたが、猛威をふるった勢いは消え失せ各地に反乱の火の手があがります。寄せ集めの盗賊集団同士が互いに結託し、力を合わせて、秦の遺産をわが物にしようと徒党を組み始めました。劉李さん、特に屈強でもなく、特に軍略に知恵が働くわけでもなく、これといって優れた能力があったわけではないのですが、少なくとも、人の話を聞く姿勢がありました。そして、この状況では、誰の意見を聴くのがいいのか、見極める才覚がありました。 あれよあれよ、という間に、泥棒集団の棟梁に祭り上げられた劉李さん、いつの間にか軍団総司令官となり、秦の都を陥落させてしまいます。この寄せ集め軍団、その後が大変でしたが、数々の危機に常にうろたえ、どうすれがいいのかを周囲の人々の意見にすがる劉李さん。どうにか生き延び、中国全土とはいきませんが、そこそこの大国を作り上げます。劉李さんが真価を発揮するのはここからです。大嫌いだった儒学者を登用。個人的には嫌いでも、国を動かすのに役に立つと割り切ります。 王様から奴婢まで、徹底した身分制度を敷き身分毎に、なることができる官位や役職を細かく決めます。 官位毎に、服装も細かく規定し、色をみただけで身分や刑事系の人なのか、軍人系なのか、財務関係なのか、外見で、パッと分かるようにします。政務の手続きや、儀礼、書式、文書による記録を徹底し、書簡による証拠、辞令の発動、刑罰、資産管理や戸籍管理に徴税など、徹底した文書化された法令をつくりあげさせます。こうした行政手続きを遂行する儒学の心得ある若者を試験によって採用し、学力があれば、重く用いる一見、実力主義のような仕組みをつくりますが、そもそも、貴族階級に生まれていないと、どんなに学問ができても、高位は得られません。 あくまで、身分制度の枠組みの中での同一身分内の自由競争です。有力な王に人々が集まり強力な集団を形成しても中々、後が続かない時代。王が変われば、一気に国力が萎えてしまいます。誰が王でも関係なく維持されるシステムをつくりあげた劉さんちの小倅さん。困ったことがありました。昔ながらの盗賊仲間や親族、つまり劉さんちの一家とその親戚が宮殿を徘徊し、よう!劉さんちの小倅よ! と なれなれしく声をかけてきます。 そこで、抜本的な解決を図ります。 昔の仲間を集めて宴会をすることにしました。これまでお世話になったお礼と一族の繁栄を祝う会です。喜んで集った一族、縁者、旧知の人々は一斉に処刑されました。こうして、身寄りも、仲間も全てを排除した劉さんちの小倅は、名前を変えることにしました。李(い)では、まずい。国という意味の「邦」という字に変えて「劉邦」 これならかっこいい!  もっとも、その後、王家の血筋の者は「李」(イ)氏を名乗り、文字としては、「井」となったり、とにかく、「イ」の音をあらわす文字を用いるようになり、これに別の文字を加えて二文字苗字にしたりして朝鮮半島や西日本など、彼らの経済的な中心地に勢力を伸ばしていきます。こうして、倭人のコソ泥、劉さんちの小倅は大漢帝国の高祖 劉邦として歴史に名を残しますが歴史に名を残すのは簡単なことです。歴史を書いてしまったのですから。それまでの時代、誰が何をやろうが、いちいち自分がやりました! という主張などしません。フェニキア人が歴史をつくり、ギリシア人やローマ人が自分たちがつくったことにした「歴史」を編纂したように大漢帝国とその末裔たちは、ひたすら漢字を用いて歴史を編纂し続けます。 もちろん、自分たちに都合よく。

 

本当のことが書いてある書物は焼き、本当のことを話す儒学者も焼き、これを焚書坑儒といいますが、徹底して都合よく書きあげた歴史書だけを正しいもの、「正史」とし、他は排除します。また、漢字をつくったんだから、「漢」なんだ、と。今でも、「夏」という文字や音、名称は、中国や台湾では大変、尊ばれますが、自分たちは、漢字を発明した古代「夏」王朝の末裔なのである、という話を主張し続けてきました。 特に証拠があるわけではありませんが、そういうことにしてきました。こうして、揚子江中流域の棚田でジャポニカ米を栽培する首狩り族、倭人。 一部が西日本を席巻する弥生となった倭人は、大陸でも、主に沿海部に広がり、その中からコソ泥集団の棟梁、劉さんちの小倅が、高祖 劉邦 と名を改め大漢帝国の創始者となりましたが、馬を飼う風習やノウハウがなく、戦車部隊や騎兵部隊をもたず、投石機はありましたが、基本的に歩兵部隊しかいなかったこの国、騎馬隊中心の匈奴にボロ負けします。 劉さんちの小倅の奥さんを差出して何とか、許してもらい、それが恰好悪いものだから、今度は朝貢貿易という概念を発明します。 自分たちが「上」だから、「品」をくれてやるのだ、という考え方です。 漢倭奴国王印なども、上から目線のくれてやる物、ということです。匈奴の属国として、奥さんまで差出し、匈奴の後ろ盾を背に周辺の国々には、威圧的な態度を取りつづけます。やがて、抵抗運動として立ち上がった集団の中から高句麗が生まれ、この高句麗の徹底抗戦により国力が疲弊した大漢帝国は、3世紀の初めにはあっさり滅びます。こうして、弥生の日本侵攻はパタリと止まりました。案外、短い歴史に終わった大漢帝国ですが彼らの発明は世界標準となります。官僚機構です。彼ら自身も、官僚として、生き残り次々に生まれる国の官吏として、国政の実務を牛耳ります。漢民族が自ら王位につく国としては、その後、大明帝国が中国全土を統一しますが、それ以外強勢を誇る国はでてきません。中国地域に誕生したほとんどの王朝が遊牧民の系統ですが、彼らは、同族集団として動いてきた歴史が長く、戦争以外に、異なる同族集団と和合する習性がありません。戦時は強いのですが、国を建てた後が問題です。そこを宦官が狙います。漢民族にとって、「王」とは狙うもの無力化するものです。秦の始皇帝暗殺という映画には巨額資本が集まりますが始皇帝という映画は案外、メジャーになりません。人食い泥棒集団の物語である「水滸伝」は人気を博します。日本語訳では、和らげた表現になっているものが多いようですがひたすら、人を食べるシーンのオンパレードのものもあります。三国志も、王様が偉いというより、有力な武人の物語であり、そもそも、歴史小説であって、史実ではありません。王を暗殺する刺客こそ、漢民族最大の英雄です。次の英雄は、「泥棒」です。 「盗石」という大泥棒の親分は特に人気があります。 孔子の10番弟子を捕えて、お寿司(酸)にしてしまった人物で、以来、孔子自身も、お寿司を食べなくなったという逸話がある人物です。ちなみに、孔子は、「上腕筋」が大の好物であったとされています。 この盗石こそ、実質的な漢民族の始祖なのであるという意見もあるようです。

 

中国の歴史の中で、漢民族の王様の名前を挙げられる人はなかなかいないと思います。たとえば、隋の煬帝は、鮮卑(ソンピー)族という遊牧民です。清の高祖ヌルハチも遊牧民です。王に率いられた遊牧民の王朝と、膨大な人口を管理する官僚機構により、実質的な国家権力の収奪を目録む漢民族。両者の戦いは、その後、2000年にわたって、続くことになります。

 

日本人は明治維新まで1000年以上、牛肉を食べなかったはずなのに、今日、代表的な日本食、和食として海外からも日本人からもイメージされる、すき焼き、しゃぶしゃぶ、は倭人の伝統食が明治維新で復活したもの、寿司は倭人が日本の天下を取った奈良時代に食材を魚に変え、更に塩漬け肉の醗酵から米を醗酵してつくった酢を用いるようにアレンジされていったものです。本家本元の大陸の倭人も寿司(酸)は食べ続けますが、豚肉を中心にする中華料理を食するようになります。これはペルシア、高句麗が相次いで滅んだあと、ササン朝ペルシアと高句麗の職人を杭州に集めて両文化を融合させて生み出したものです。唐三彩の鮮やかなグリーンはペルシアの伝統、超微粉化した石を焼いた磁器は高句麗の発明品です。これがヨーロッパに伝わりヘレンドなどのブランドとして定着していきます。水と火を司るマズダ教(ローマではミトラ教、日本ではゾロアスター教と呼ばれます)の国ペルシアはアラブ人の間に興ったイスラム勢力の猛攻を受け、信者の大半がイスラムに改宗したふりをし、政治的にも人類最大の帝国はアッバース朝の支配下に入り、大帝国としての永い歴史を閉じます。化石燃料の扱いに長けた彼らは細長い土を盛り上げたような炉でコークスを燃焼させ、1000度の強い火力で一気に食材を加熱します。柄の長い丸底の鉄鍋を炉の穴に乗せ、油やスープと食材を一気に投じて20秒以内で仕上げます。これがそのまま庶民向け中華料理の基本スタイルとなりました。宮廷料理はどこの民族でもよく似ていますが、長い時間をかけてじっくり加熱する低温調理で、沢山たべても大丈夫な薄い味、庶民向けは強い火力ですぐつくり、濃い味にして穀類を食べるためのおかずにします。中華料理も基本は同じです。遊牧民が跋扈する草原地帯は馬が走り回り、乾燥に強い羊を飼います。倭人が勢力を伸ばしていった水稲に適したモンスーン帯は米 + 牛が基本。 高句麗が勢力を伸ばした中間帯は複雑な地形で鉱物資源に恵まれ、雑穀や豆類、麦に豚が基本です。 中華料理はコークスを用いるペルシア式調理法に高麗族(こまぞく)が好む豚を中心とし、これに海鮮を加えた食材をメインにするようになります。食は広東にあり、と日本のTVCMで使われたフレーズがありましたが、現地では食は杭州にあり、と言います。 一方で、あまり、おおっぴらにはしませんが、オリジナル通りにつくられた寿司もグルメとして食べ続けたのです。

 

大漢帝国の都、洛陽をはじめ古代中国の都は内陸のイメージが強いですが、倭人の経済的中心地は楽浪(平城ピョンヤン)や帯方群(漢城ソウル)です。漢族は倭人の中から独特の文化形態を確立し、かつ概ね300家族ほどを中心とする氏族の子孫が爆発的に人口を増やしていったもので、漢=倭とも言えないものがあります。漢化しなかった倭の人々も多いわけです。平城や漢城は塩が集まる交易の中心です。ヨーロッパにはいくらでも岩塩が供給されますが、中国では岩塩が限られ、海産の塩が最重要な交易品となってきました。岩塩を掘れないとなると、当然、内陸では塩をつくれません。モンゴル帝国の発展理由の一つに徹底した税制改革による商流の促進が挙げられますが、マネーサプライの確保も重要でした。銀では流通量が限られ、塩の兌換券を通貨として大量発行します。塩の生産は管制であり、塩の兌換券は必ず使用されるので、通貨発行機関と市場の間を確実に循環する通貨として機能しました。倭人の経済基盤は水稲で、肉の保存には寿司にするための塩が必要です。そもそも水に次いで塩は生きていくために最も基本的な物質です。稲は暑い時期に急成長し、大量の水、麦の3倍の水を必要とし、モンスーン気候区で広がりました。倭人の勢力地域も大陸沿岸部、遼東半島、朝鮮半島南部、西日本などに広がりました。麦に雑穀、豚を中心にする高句麗は中国東北部を中心に草原地帯と山岳地帯の中間地域や北日本、東日本などを中心に広がっていました。高句麗は貴重な岩塩ソースを確保していたと言われています(長距離交易かもしれませんが)。モンスーン気候であれば夏に多くの雨が降り、水稲に適しています。日本でも特に西日本は苗代作りから田植えの時期にも雨が多く、最も水が必要な盛夏に瀬戸内地方は内海で雨が降らなくなりますが、数多くのため池をつくってこの問題をクリアしています。一方、塩つくりには夏の強い日差し、高い気温、風によって、稲に染ませた海水を濃縮し、豊富な雨によって大量生育した植物を燃料にして製塩します。夏、雨が降らない瀬戸内は製塩には理想的です。 古代のソウルやプサンは燃料には事欠きませんが、夏に降雨が多いため、それほど製塩には向いていないはずですが、慶尚道や全羅道の南部海岸地帯に数多くの製塩所がありました。これも瀬戸内ほどは向いていませんが。ほとんどの時代、製塩業は管制として私造は一部例外を除いて規制されていました。古代より事実上の通貨として流通していた塩の製造・流通を握ることが倭人の財政基盤となり、流通拠点がピョンヤンやソウルです。

 

ヨーロッパから宣教師が送り込まれ、世界各地が植民地化される状況下、倭人の中のエリート漢族自ら王朝をたてた大明帝国はこれに適切な対応をできず、危機感を募らせた清が明を倒します。日本では秀吉が明を従え、ともにイスパニアへ侵攻しようと画策しますが、志半ばどころが、はじめの段階で挫折します。滅びゆく明の王族は徳川と手を組み、明の再建を狙いますが、おそらく銀と金の交換レートが日本とヨーロッパでは全く異なることを利用し、貿易規制をかけて確実に儲かる金・銀貿易を明の残党・徳川家連合で独占した可能性があります。この時期、徳川政権は漢族の儒教を取り入れた他、一部の商業集団(南近江の近江商人の一部)が圧倒的な資本力を背景に日本のほとんどの都市を作り替え、伝統技術や工芸の技能集団をギルド化し、資金繰り、原材料仕入れ、販売を一手に握る商社金融方式で日本文化を作り替えていきます。例えば南部鉄器の伝統的なブランド名はよくわかりません。江戸時代に近江商人が資本を投じ、商流を握ることで確立したブランドです。呉服町、祇園、など同じ名前の組み合わせの町が全国各地にありますが、江戸時代初期の文化大革命の拠点として整備されていった町です。祇園祭りも作り替えられ、そもそも京都の祇園の町はこの時期に河川敷の土地の所有権は曖昧だからと、江南の近江商人が今よりはるかに広かった鴨川河川敷を占拠し、高瀬川などの運河を穿ち、新しい町として作り上げたものです。 日本の伝統的な着物は天女の羽衣のような自由に動ける高句麗衣装が基本でイメージとしては高松塚古墳に描かれた女官が着ているものです。これが江戸時代初期に和服として作り替えられます。女性の体を徹底的に縛り、自由に動けなくした上、肝心なところを無防備にした作りになっています。呉服問屋とか、呉服ともいいますが、漢族は呉と書いて「ワ」と発音します。呉服とはワ服なのです。日本書紀編纂の時代、江戸時代初期、明治維新、主に三度の大きなインパクトが倭人の正体を覆い隠し、日本と倭をごちゃ混ぜにするように仕向けていきました。

>>全投稿記事一覧を見る