藤井真則のブログ

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TOP > 日本人の魂 (8) 輝ける古代日本4世紀末~5世紀の世界2

2016年11月15日

  

えとせとら

2016.11.12.

 

 

(これ、ず~~っと、続きものです)

 

 

古代日本が最も栄えていたはずの

4世紀末~5世紀

 

巨大遺跡や、大運河建設のラッシュだった

時代、大陸でも、日本国内でも

書かれた歴史は沈黙します。

 

大陸では、五胡十六国の乱とされ

実際、戦国時代だったようですが

この時代に限らず

大陸では、基本的に戦国の世が

続いていました。

中国を最初に統一したのは

モンゴル帝国です。

そのあと、大明帝国と清、

そして中華人民共和国

この3つの国は中国を統一していますが

それ以外に、統一国家と呼べるものは

存在しません。

 

歴史上、中国という国はほとんど存在しないのです。

 

 

さて、この時期、古代日本国家存在のエビデンスとして

好太王碑の碑文が、大々的に利用されたわけですが

高句麗軍は、倭人と戦った、とあります。

 

倭人は、大陸にも半島にも西日本にも、

いたるところにいましたし、

高句麗軍は、倭人の生息地の多くに

進攻しています。

 

好太王碑の碑文に

高句麗軍が倭人と戦った、というのは

当然の記述ということになるのですが

倭人 = 日本人 というイメージつくりが

行われ、日本に侵略してきたのは弥生人

なぜか、弥生人はどこへ行ったのか

歴史は語らず、いつのまにか

日本は、倭の国になっており

弥生人がやってきたはずの大陸には、

弥生人という民族はみあたらず、

中国人という歴史上は存在しない

民族が、ずっと昔からいた、という

話になっており、大陸のどこかしこに

倭人がいた、というのは都合が悪いわけです。

 

かといって、高句麗軍が、西日本を

席巻した、という本当のことを認めるのも

何かと都合が悪く、任那日本府という発明が

為され、日本列島から朝鮮半島に進出していた

倭人と、高句麗軍とが、半島で戦った

ということにしたところ、当時は

まだ畿内や九州などは、ヤマトであって、

「日本」というのは、津軽の国の国号でした。

任那ヤマト府ならともかく、

日本府という言い方は

辻褄があいません。

今日では、任那日本府などという話は

真面目に相手にされなくなっています。

 

さて、この高句麗、日本史や世界史の

教科書では、ろくに語られませんが、

その割には、好太王碑だけが突出して

大きく扱われます。

 

高句麗というと、朝鮮の国と思っている

日本人が多いほど、とことん、この国の

歴史は、誤魔化されてきました。

 

高句麗は、東アジアで、700年にわたり

存続した、最大の強国です。

 

モンゴル帝国(元)、大明帝国、清

いずれも700年など足元にも及ばず

滅んでいます。

 

モンゴルは遊牧民がつくった国

大明帝国は漢族の国

清は満族の国で、これも基本的に遊牧民の国です。

 

それより前の国は、群雄割拠の中で

それほど長続きしません。

 

始皇帝の軍団は15年

隋は30年

 

短期間の間に、滅んでいるのです。

 

 

高句麗は、漢に対する抵抗運動から

興っていった国ですが、何せ、人が人を

食糧とした時代、西日本でも、人骨には

調理の跡がある時代、愛する人を守るために

国を創った、のが高句麗建国なのですが

人を守るというのは生半端なことではない時代のことです。

強盗か泥棒か、でなければただ食糧にされてしまう

とんでもない食糧危機下の戦国時代です。

 

紀元前に中国遼寧省で建国された高句麗は

概ね、満州を中心とし栄えます。

朝鮮の国というのはかなり歪曲されたイメージです。

 

 

書かれた歴史が一斉に沈黙する4世紀末~5世紀の初め

というのは、高句麗の最盛期です。

 

第19代広開土王好太王自ら率いる高句麗軍団は

満州を拠点に、朝鮮半島へ進攻

倭人経済の中心地であった楽浪郡を平定します。

後に、楽浪郡の都であった平城に

高句麗の都が移り、ここが最後の都と

なりましたので、何となく、高句麗は

朝鮮の国のようなイメージで

語られていくようになります。

 

更に南の帯方郡も討ち、都である漢城(ソウル)を

占領します。 漢城は、後に京城という字が

あてられるようになりますが、元々、漢城と

書きました。 ここは、後漢が滅亡した後

漢王朝の末裔が本拠地とした都です。

 

朝鮮半島南部にも高句麗軍は進攻しますが

戦後、百済や新羅は存続します。

 

更に、魏を討ち、華北を征圧。

バイカル湖周辺には多数の高句麗遺跡が残っていますが、

モンゴル高原から沿海州一帯、また中央アジアを西方へと勢力を拡大

最西端の高句麗古墳は、アフガニスタンで

発見されています。

 

日本にも高句麗遺跡は数多く残っており

有名なのは高松塚古墳やキトラ古墳ですが、これらは

5世紀よりももっと後につくられたものです。

 

東アジア最大の強国が圧倒した時代、

歴史を書く人々は沈黙し、この時代について

書かれたものは、徹底した焚書坑儒に遭います。

 

ということで、なかなか、文献ではわからず

好太王碑の碑文も、肝心なところが削られおり

判読できません。

結論だけ申し上げると、高句麗軍団は、西日本を席巻

突然、この時代に大量に出土する馬の骨から、騎馬軍団の

到来は想像されてきたわけですが、単なる侵略者ではなく

京都の大規模な治水工事をはじめ、日本の国創りに多大な

影響を及ぼしていきます。

 

その後はどうなったのでしょうか。

 

高句麗軍団は、撤退し、百済や新羅と同じく

大倭政権は、維持されたのか、

あるいは、高句麗軍占領地域となったのか、、、、

当時は、国境という概念は明確ではなく、

人々は自由に行き来していました。

どこからどこまでがどの国で、という現代の概念で

みるとわからなくなってしまいます。

軍団主力がどうなったかはわかりませんが

多くの高句麗人が日本に住み続けます。

 

平城に都を遷した高句麗本国では

人口急増により、様々な問題が生じます。

また、歴史を書く人々も逆襲に出ます。

 

国を創るのは苦手でも、創られた国が大きくなると

官僚として国の管理機構に入り込み、

実権の掌握を狙う、というのが歴史を書く人々の

常套手段です。

 

また、仏教を高句麗に広めます。

 

これで国が弱ります。

 

一般に仏教経済は、イスラム経済に駆逐されていきます。

高僧は修行を積み、表向き、質素な暮らしをすることに

なっていますが、労働をしないため、お布施を求めます。

ところが、富が寺院に集中し過ぎ、これを市場に投資しない

ため、仏教経済は閉塞状態に陥っていきます。

信長が断行したのは、大寺院に蓄財された富を市場に

放出させ、交易・流通を活発にするマネーサプライを

増強する政策でした。

資本主義は金利によって、金融機関に富みが集中する

構造をもちますが、イスラム経済は金利ゼロが原則であり

交易を重んじ、活発な経済活動を促進します。

そのため、かつて仏教国であった地域は大半が

イスラム化していきました。

 

そういう問題もあるのですが、国としての一体よりも

民が個人個人の幸せや救済だけを望み、

国力衰退の一因となっていきます。

 

 

日本の仏教も、高句麗から伝わってきました。

 

お寺といえば、五重の塔が建っていますが

五重の塔は、本来、仏教とは何の関係もありません。

 

高句麗文化の象徴であり、天へ天へと伸びる樹を

表わすものです。 五重の塔という文化をもつ高句麗に

仏教が入ってきたため、高句麗の仏教寺院は五重の塔を

建てるようになっています。これがセットで日本に

入ってきたため、日本では、お寺、少なくとも

ある程度の規模があるお寺と言えば、五重の塔が

つきものになっています。

 

 

遣隋使を送って、隋の優れた文化・文明を

導入して日本という国をつくった、という話が

作られました。 ほぼ作り話です。

 

第一次遣隋使は隋の煬帝に謁見していますが

有名な 日出る国の天子、、、、 という名文は

高句麗高僧 慧慈が書き上げ、奏上したもの。

帰路、この使節団は武装集団の襲撃を受け

煬帝の返書は紛失したことになっています。

そして、5年後、隋の大軍113万人の

戦闘員が高句麗に侵攻し、高句麗軍に

徹底して撃破され、ほぼ全滅に陥り

隋は滅亡へと向かいます。

 

こういう状況ですから、遣隋使が文化とか

文明を持ち帰るような余裕はありません。

 

その後、遣隋使や遣唐使の発令は何度もありましたが

実際に行ってきた人は、ごくごく一部で、ほとんどが

名前だけで、出発もしていません。

 

隋や唐から文化・文明を教えてもらったというのは

後世の作り話で、具体性はありません。

 

 

一方、高句麗の足跡は至るところに残っています。

 

 

(続く)

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