藤井真則のブログ

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TOP > 明治維新の実態(3) 徳川家乗っ取り

2018年11月13日

  

えとせとら

(前回からの続きです)

 

明治維新の山場は教科書的には大政奉還です。実態はすぐさま徳川家へ政権再委任が始まり有名無実化されかけます。クーデターによる鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争等、軍事力による政権奪取だったのですが。一橋公を将軍の座に就けたのが討幕派連合です。最後の将軍なので目立ちますが在位僅か1年のワンポイントリリーフ登板です。そして大阪城からの敵前逃亡と江戸城明け渡しという逆転サヨナラ満塁ホームランを薩長側に配球して徳川時代を終わらせます。

 

内戦による軍事制圧前に敵である徳川家を乗っ取った訳です。

 

これが明治維新の実態かというと、誰が乗っ取ったのか、ここが問題です。

 

 

本題に入る前に、御一新の功労者たちはその後どうなったでしょうか。

 

 

徳川軍を崩壊させた最大の功労者である将軍様は悠々自適の生活。旧幕臣の多くが生活にも困窮する中、議員として国政にも参加します。 没年大正2年

 

江戸城無血開城を実行した勝海舟。相当危険な任務です。強大な戦力を保持し戦う前から無条件降伏ですから、暗殺ないし部隊ごと反乱される可能性大です。西郷隆盛との密談も命懸けです。敵将は「仲間」ですが。この難題をクリアした功労者もまた明治時代、境遇としては大変恵まれ後世を送り、明治政府の要職を歴任します。 没年明治32年

 

江戸城開城反対派をとりまとめ艦隊に乗せ北辺の地へ連れ去って戦士させた榎本武揚。海軍伝習所時代は勝海舟らと同じ時、場を過ごしますが超エリートとしてヨーロッパ赴任時代は大財閥の総統などエスタブリッシュメントと直接親交を深めました。五稜郭で「同士」の大半が討死し、生き延びた本人も流石にしばらく牢に入りますが、出所後は明治政府で異例のスピード出世を遂げ数々の大臣職を歴任します。 没年明治41年

 

伊藤博文、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、江藤新平ら薩長土肥の主要人物の大半が非業な最期を遂げたのとは対照的です。

 

(続く)

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