藤井真則のブログ

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TOP > 明治維新の実態(7) 堂々と将軍家に仲間を送り込んだ人々

2018年11月20日

  

えとせとら

討幕派が慶喜を将軍に据えようとする画策に猛然と対抗した井伊直弼。

 

討幕派首謀者の代表格島津斉彬が軍を起こす直前急逝し、安政の大獄が始まります。水戸派とも言われた討幕派に連なる松平春嶽や山内容堂等、大名家のみならず公家や徳川家お膝元まで大物にも蟄居謹慎が申し付けられます。断トツ最高の罪状、つまり全国の討幕派をまとめあげるリーダーとして橋本佐内は特別厳しく取り調べを受け、斬首されます。刑罰を受けた者は100人を超えますが、比類ない筆頭の罪人とされます。この人物は福井松平家の家臣、春嶽の懐刀です。

 

明治維新における数々の「騒動」は、家臣を辞し、給与所得を失った浪人達が全国を移動しまくり、武器弾薬を集めて武装蜂起したのですから当然、誰かが資金を出したわけです。資金提供の動きが見えるのは松平春嶽で背後には英国商人グラバー等、そして実務上のリーダーとして橋本佐内が動いていました。安政の大獄は討幕勢力の戦力を大いに削いだのです。

 

長州人吉田松陰はさほど大物とはみられていなかったようです。当時、毛利家は明確に討幕派として動いていた訳ではなく一部浪人が討幕派に群がっていただけでしたので、徳川家としては大国毛利家を下手に刺激したくないという思惑もあったようで極刑にはならないとの予測もありました。ところが取調において相当過激なことをしゃべりまくり、これは捨て置けないと斬罪になります。明治になり伊藤博文らが出世してから松陰先生は相当美化されていったようです。

 

水戸浪士らによる桜田門外の変にて井伊直弼が暗殺された後は徳川家臣団より、討幕派諸勢力の代表者の方が家康公の血筋を引いていたり、将軍家と縁戚関係にあったりで影響力が強い訳です。15代将軍に慶喜が選ばれるのは時間の問題です。14代将軍家茂、義兄で攘夷の権化孝明天皇が相次いで急逝します。

 

討幕派が望む人物が将軍となり軍事決戦の準備が整いました。

 

 

 

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