藤井真則のブログ

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TOP > 武田騎馬軍団のポニーはショボくなかった

2015年10月25日

  

えとせとら

何やら妙な記事がネットに流れておりました。

武田騎馬軍団は実はショボかった、と。

なんでもサラブレッドが日本に入ったのは 戦国時代より後で、それまでは木曽馬などしかなくせいぜい、ポニー程度の大きさで100キロもの重さになる武装した武将を乗せると10分でばてた、というものです。

鎧が赤い、なども単なるパフォーマンスに過ぎず、、、

という調子でした。

もちろん、私も戦国時代で実際に戦闘が行われている記録映像を見たことはありませんので、本当のことはわかりません。

ただ、いくらなんでもポニー程度でショボかったというのは勉強不足ではないでしょうか。  書いた人が、全く一般個人ならともかく、影響力ある立場の御方なので、もうちょっと勉強してほしいなあ、、、と。

ちなみに鎧が赤いのは高価な金属酸加物でできた顔料と大量の漆を重ね塗りで用いているということで経済力を誇示するという意味もあります。

サラブレッドは、競走用に「加工」された馬で 脚が細すぎ、荷物を運ぶには適さず、また骨折しやすいので戦争には向いていません。

サラブレッドは、この3頭からはじまった

ここからサラブレッドなんだ、とルーツまで細かく、記録が残っています。
徹底して、掛け合わせでつくりあげた血統です。

馬は4000万年前には哺乳類の代表格として走り回っていましたが(巨大な鳥のエサになっていました)サラブレッドは、ごく最近つくられたものに過ぎません。

日露戦争のころは、まだまだ砲兵隊といえば馬が主役で、砲だけではなく、砲以上に大変な大量の弾薬を輸送する輜重部隊にも馬は欠かせない存在でした。最も大量に軍馬を送りこんだのは古代からの名馬の産地である栗駒高原です。
こうした軍馬はサラブレッドではなく、大きさとしてはポニークラスの脚が短い馬です。でも、脚ががっちりと太いのが特徴で重量物の運搬に向いています。

ロシア側の最精鋭部隊はコサック騎兵です。これには日本軍も悩まされます。突然、補給部隊を襲ってくるので大きな被害が出してしまいました。

曾祖母が臨終の際、兄の形見というのを見せてくれましたが、コサック騎兵の奇襲を受け心臓を一発で撃たれたということで、胸に入れていた寄せ書きに 血痕がついていました。時間が経てば茶色くなるはずですが、鮮血のような鮮やかな色だったのが今も印象に残っています。

日露戦争天下分け目の最大の決戦「奉天大会戦」では、日本軍がアレキサンダー戦法を応用した作戦で次々に陽動攻撃を仕掛け続け、ロシア側の機動兵力を左右に振らせながら、わざと隙を見せここぞという決戦の時を演出します。

今、中央突破すれば日本軍は総崩れ、そう確信したコサック騎兵は日本の陣営のど真ん中に突撃します。そこで待ち構えていたのは大量のホッチキス社製軽機銃による十字砲火でした。歩兵が運べる軽さの機銃を各方面から迅速に移動させ、ここという時と場に集中投入したのです。 生き残ったコサック騎兵は勝手に戦線離脱しここに、ロシア軍の士気は崩壊、奉天の街を放ったらかしにして、全軍撤退します。

国家の軍隊として、世界で初めて機関銃を制式大量発注したのは日本陸軍ですが、軽機銃がコサック騎兵を壊滅させた衝撃は大きく、以後、各国は機銃を標準装備とし騎兵は代表的な兵科ではなくなっていきます。歩兵・騎兵・砲兵の時代から日露戦争を境に歩兵(+機銃)・砲兵の時代へ移行し、第一次大戦へと続き、最終局面で機銃ではやられない装甲した騎兵「戦車」が登場します。 現代の米陸軍には第一騎兵師団がありますが、装甲されたジェットヘリに乗っています。

 

馬がひっぱる戦車の時代を含めれば馬が戦場の花形であった4000年の歴史はここに幕を閉じることになります。

 

 

さて。
10分で、ばてた、ということですが。。。。

もちろん、全力疾走させればすぐばてるのはどんな動物でも同じです。
サラブレッドに鎧兜で身を包み重い日本刀や槍に重い弓をもった武将を乗せ全力で10分走らせたらまずバランスを崩して転倒、下手したら骨折で、殺処分でしょう。

モンゴル軍団では長距離早馬行軍の際、兵1人で12頭の馬を並走させ、馬が疲れる前に別の馬に飛び乗り長時間連続走破を可能にしていたそうですが頻繁に乗り換えたようです。  モンゴル軍の軍馬も匈奴の汗血馬と呼ばれた軍馬もポニークラスの脚の短い馬です。

ロバはもっと小さいですが、重荷を背負うのは得意です。
よくまあ、こんな小さな生き物に、と思いますがそれこそ、100キロ以上の荷物を背中に載せ文句も言わずに、黙々と運んでいます。もっとも時々、吠えるのが異様に大きな声で初めて真横で、ロバに吠えられた時は恐竜でもいるのかと思いました。 恐竜のほんものの声は聴いたことがありませんが。もちろん、ロバでは早く走ることはできません。

済州島には、戦国時代に使われた馬の子孫が今でも走り回っている地域がありますが、やはり背の低い 「ポニー」 です。

基本的に軍馬は脚が短く太く、丈夫で頑丈なのが特徴です。

もっとも、武田騎馬軍団とかいっても1万、2万の軍勢が、みんな馬に乗っていたのではありません。どこまで本当かはわかりませんが、資料によれば騎馬の比率は、全兵力の6%とか、11%とか、騎馬隊だけで編成された軍隊ではなく、普通に槍兵もいれば弓兵もおり、小荷駄隊もいて、各々の部隊の中でも、武器を運ぶのが仕事とか、馬にのった大将が倒した相手の首を斬って運ぶのが仕事とか中には、夜、大将の相手をする「男の子」とか、いろいろいるわけです。

武田氏は、金山から掘り出す金を財源に軍備の強化を図りましたが、鉄砲も購入しています。ところが、騎馬隊が突入すると当時の鉄砲では次発装填する前に踏み込まれるので、馬を優先して揃えていきました。特に、上州へ進出してからは、小坂氏をはじめ関東平野を走り回っていた騎馬衆が大量に加わりさらに、強力な騎馬隊を編成するようになります。 今でも、上州は、馬が群れる と書いて群馬といいます。

さて、騎馬隊といっても、モンゴル軍のように軽身で機動力を発揮することが基本の軽騎兵もいます。こういのは騎馬隊単独で広い範囲を走り回り 神出鬼没のゲリラ戦を展開したり、不利と見れば速足で逃げるのですから敗けることはありません。

ちなみに、コサック騎兵というのはキプチャックハン、つまりモンゴル帝国の末裔です

スキタイ軍の軽騎兵が歩兵と重戦車中心のペルシアの大軍70万を撃退しましたが、スキタイは有利とみれば闘い不利とみればどこかへ消えるので広大な戦場では、基本的に軽騎兵が歩兵隊に負けることはないのです。

しかもスキタイの中でも中心的な王族スキタイは老若男女、全員が馬に乗るか馬車に乗って生活場所自体常時、移動し続けます。国ごと移動し続けるわけで、彼らに「自分はどこで産まれた」という発想も記憶や記録もありません。どこから来たかはほとんど意味を為さず、今からどこへ行くかしか考えない人々です。 スキタイと戦争をする、スキタイ領に侵入するといってもどこを陥落させれば勝ちということはありません。 ペルシアの大軍は、広大な草原地帯で攻略目標を設定することもままなりませんでした。

スキタイと戦うならどうすればいいかを実証してみせたのは、アレキサンダーです。テッサリア騎兵、つまり自分たちも騎兵部隊として侵攻し、場所などどうでもいい、とにかくスキタイの集団を追いかけ、族長(数千人の集団みんな血縁者で、血族の長を族長といいます)の首を取るのです。

一方、正面突破力を重視した機甲部隊もあります。
群を抜いているのは、主戦場で正面から敵陣を打ち破る高句麗軍の装甲槍騎兵です。 高句麗軍の装甲槍騎兵は、表面張力鋼を用い軽くて丈夫な鋼板を重ね合わせて、馬の脚先まで装甲防御を施しています。
騎兵はどうしても馬の脚を狙われます。なので地面近くまで装甲したのです。ぴったりと隙なく密集した状態で突撃し長槍を突き出します。  数十騎が一つの塊になって、つまり、鉄の塊が猛スピードで突っ込んでくるんですから歩兵が平地でこれを防ぐのは難しいものがあります。運動エネルギーで蹂躙されてしまいます。

武田騎馬軍団の馬は特に装甲されていたわけでもなくかといって軽騎兵として単独の遊撃部隊が編制されたわけでもなく、戦場において諸兵科連合軍を組みここぞという場面で機動力や突破力を発揮し、一気に押し出したり、あるいは、背走する敵を掃討する際に、脚を活かしたようですが全力で馬が走るのは突撃の時だけで敵陣に突っ込むともう乱戦ですから走り通しているわけではりません。

馬は、少なくとも4千年前には家畜化されていたようですが、最初は馬肉として食べたようです。 草原の雄スキタイ人は当初、単なるタンパク源としていたようですが、やがて鐙を開発し騎兵が誕生します。
ただ、その前に、馬に二輪車を牽かせる戦車が登場します。二頭だて、四頭だて、四輪車を牽かせるもの車輪の軸の外側に鎌をつけて、敵兵を切り刻むもの などなど、多くのバリエーションが登場し戦場の花形となりました。  ただ、機動力には難があり特に起伏が激しいと使い物にならなくなります。  騎兵が登場してもしばらく騎兵と戦車は異なる目的で併用されますが、徐々にかなりどんな地形でも高速機動可能で小回りも利く騎兵に主役の座が移っていきます。

ところで、日本を代表する軍馬の名産地「栗駒高原」は、古代、「日本」と大和(倭)勢力とが激戦を繰り返した衣川の近くにあります。
阿弖流為や、安倍一族が倭と戦った最前線です。  「日本」というのは、元々は、津軽の国号です。  日本書紀が編纂されるころまで日本といえば東北北部のことで倭(「ワ」 もしくは、後に「ヤマト」)は日本とは呼ばれていませんでした。  北陸には、越の国というのもあり、ここも倭ではありませんでした。

日本刀のルーツは、今日の岩手県にあり今も神社となっています。  金属精錬技術に長けた豊かな国「日本」特に大量の良質の金を産出することに目をつけ執拗にその豊かさを奪いに押しかけたのが 倭 です。   倭人は、日本人のことではありません。
元々、揚子江中流域の山の斜面に棚田をつくり、ジャポニカ米を水田で栽培していた首狩り族です。
後に漢字を導入し儒教や科挙の制を取り入れ官僚主義を確立して各地の国々の行政権の行使を行うことで勢力を拡大してくようになります。  倭人自身の王朝は漢や明など(彼らは大漢帝国、大明帝国などといいます)ごく限られますが他の民族の王朝にも倭人は官僚として浸透を図り、漢字を普及させた地域では概ね官僚機構の導入に成功します。

咸陽は敵の都だったから取りにいっただけで、倭人の本拠地は楽浪郡・平城(ピョンヤン)です。通貨としても流通する貴重品「塩」を量産するのに適した経済の中心地です。 後に南隣に帯方郡がつくられ、その都、漢城に本拠地が移り、平城の方は高句麗軍に占領され高句麗の都になります。

漢城はソウルのことですが、のちに京城と表記が変わります。

魏志倭人伝は、倭人の物語なのであって日本人の物語ではありません。  倭人は西日本にも朝鮮半島南部にも遼東半島南部や中国沿岸部にもたくさんいましたから 倭人の地 = 日本 と思い込んで読んでしまうと辻褄が合わないのは当然です。 ましてや第二次大戦後につくられたイメージで「中国と日本」と思ってしまうと当時の状況から離れまくってしまいます。

歴史上、中国などという国は存在しないのです。

魏志倭人伝は、「魏」という国で書かれたもので、「魏」は、「中国」とイコールではありません。
魏志倭人伝の冒頭に「魏という国は倭人がつくった」 とあります。

これは日本から倭人が中国に侵攻して魏という国を建てたのではなく、もともと中国にいた倭人が西日本や今日の韓国の地域に大量に進出してきたのです。

BC3世紀  倭人は、始皇帝のペルシア式重戦車を主力とする軍勢に追われ揚子江を下って寧波(遣唐使が行くところ)や山東半島、遼東半島、 朝鮮半島南部、九州~中四国などへ押しかけました。  これが、弥生の主力です。  やがて、西日本から関東辺りまで広がります。それまでの平和な時代とは打って変わり当時の人骨には調理の跡が見られます。

彼らは、馬は飼っていませんでした。

4世紀の終わりまで、西日本ではほとんど馬の骨が出土しません。  仁徳天皇陵をはじめ、最大級の古墳群が大量に築かれた時代、もっとも日本列島の書かれた歴史が消されている時期ですが、そのころ一挙に大量の軍馬の骨が出土します。もちろんポニークラスの丈夫な軍馬です。 
高句麗広開土王「好太王」治世のころです。
日本書紀によると、好太王の子孫が日本では、高麗姓(こま)を名乗ったと記されています。

高麗は高句麗の国号ですから日本の正史に高句麗の国号を名乗る氏族がいると書かれているのは尋常なことではありません。

ましてや具体的な祖となった王様の名前まで書いてあります。
ちなみに蘇我氏の基盤を築いた蘇我稲目の母は高麗氏とあります。 聖徳太子を含む蘇我一族の始祖は高句麗広開土王好太王様の血筋から始まったと日本の正史には記述されていることになります。

今日の東京や埼玉を含む武蔵国の国守も高麗氏でした。

好太王様治政の5世紀のはじめころといえば各地で大土木工事が敢行され京都の巨大運河も穿たれます。 琵琶湖の水量に匹敵するといわれる京都海盆の上に浮かぶ京都はかつて湿地帯であり人が住めない土地であったため東山の山腹に拠点を置き高句麗文化の象徴である五重の塔 「八坂の塔」を築きます。  (五重の塔は元々、仏教とは無関係で高句麗固有のものです。仏教とは後から融合したものです。)  現存する八坂の塔は、オリジナルが燃えてしまったものを後世に建て直したものですがオリジナルの八坂の塔は日本で最古のものでした。 高句麗本国が滅亡した直後に八坂氏が日本へ移り八坂神社を建てたとしていますが、八坂神社には高句麗から神様を運んできたとの由緒が書かれています。  八坂の塔はそれよりも何百年も前に建てられ場所も少し離れています。

5世紀、巨大運河群で水を抜き、どこを掘っても綺麗な水が出る地下水脈が構築され京の都の礎が築かれます。
平安京遷都は京の都が築かれてから400年も後に行われそれまでの都の宮殿があった烏丸御池、東洞院、西洞院といった中心地や東山に近い高台の「いい土地」ではなく、湿気が多い下京の端の方に造成されたものです。
堀川は小さな水路になってしまい、鴨川も河原町通から東を江戸時代に埋めてしまうなど随分と様変わりしたもののまだまだ桂川、宇治川、木津川などこれらの運河群は今も健在です。

倭と戦った日本の兵は騎兵を中心に強力な日本刀の原型を用いました。
戦闘そのものは常に「日本」側が優勢に推移します。
弓については執拗に大和の弓が日本の弓を上回ったと、これでもかと強調されています。当時の日本(東北)では狩猟用の小さな弓矢が使われ、倭人側は最初から対人殺傷用の大型の弓矢を使ったというのが定説になっているようです。 最高品質の強い弓をつくる檀の樹は東北名産ですが矢をつくる矢竹は吉野が名産地として知られています。 高句麗を建国した初代東明王は朱蒙(弓がうまい人)という名前で呼ばれていましたが高句麗軍では五人の女性が力を合わせて絞る弩弓(アーチェリーの巨大なもの)も有名でした。 東アジア各地で高句麗軍の弓矢に苦戦を続けた倭人は異常に弓を意識するようですが日本書紀の記述では日本の軍勢に弓矢の長距離攻撃で応戦したことが強調されています。

さて、高句麗では軍馬教練所を「戸」と書いて「へ」と読みます。
一番教練所は、「一戸」です。 以下、二戸、三戸、、五戸、八戸、、、 十三戸、と続き、坂戸を経て、かつての埼玉県日高郡高麗郷の一時、高句麗王が拠点とした高麗神社へと続きます。

最後の王様である若光王様がこの地で息を引き取られましたがやはり正史には日本国内でも高句麗の国号を名乗っていいとされ高麗王若光と記述されています。
高麗神社から、裏の山道へ入り峠を越えれば、甲斐源氏武田騎馬軍団の本拠地となります。

 

栗駒高原

こうくり の 「くり」 に高句麗族を表し、国号でもあり王家の名でもある、高麗(こま)の文字が変じた「駒」高句麗所縁の地と言われています。

夜、急に空が澄み渡り月がまばゆく輝いていました。
ふと肌寒さに冬の兆しを感じます

天高く 馬肥える秋

空が澄み渡る秋が訪れ夏草をたっぷり食べた軍馬が丸々と太り長距離遠征の準備ができた頃合、そろそろあの強力な騎馬軍団が攻めてくる季節となってしまった。。。。 という意味だそうです。

もっともその解釈は歴史を書いた側のもの。草原の民は夏でも戦争できます。 一方、穀倉地帯で農奴を使役して人口を抱える側は夏は農作業に徹し、秋の収穫が終わったら兵士として徴用され戦争です。

 

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