藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。

TOP > 北朝鮮

2011年12月24日

  

えとせとら

2011.12.24.
 
 
クリスマスイブには相応しくない話題ですが
北朝鮮について。
 
このブログは、常識とされていることこそ
むしろ、胡散臭いものが漂っており、
常識の深層を探れば、真実と真実を覆い隠し
捻じ曲げた常識の罠が見えてくる、という
トーンで書いているのですが、では、
北朝鮮という国が常識に反して素晴らしい国と
書けるかというと、それは無理 !
 
常識通り、トンデモ国ですね。
 
拉致問題がある以上、我々日本国民にとって
敵性国家なわけですが、その問題がなかったと
しても、そもそも、トンデモない国です。
 
すみません、あまりに常識的で。
 
実は、一度、行ったことがあるのです。
という話をすると、
「、、、、、」という沈黙が流れたり、
「えっ? どうやって行ったんですか???」
と、大変、不思議がられたり、
「どういう特別なルートで?」
などと、人をまるで過激派か何かのような
訝しがる顔で尋ねられます。
 
昔は、普通に行けたのです。
 
今は、どうなのか、よく知りませんが、多分、普通には
いけないんでしょうねえ、、、??? 
 
もう10年以上前になりますが、
ごく普通に、一般的な老舗の旅行代理店がツアーを
組んで、添乗員さんの案内で行ってきたのです。
商社勤務時代は、添乗員役をやることはあっても
添乗員の案内で海外へ行くことなどなかったのですが、
流石に、北朝鮮となると、単独行動をする気には
なれません。 仲間同士、常に、何かあったら合図を
送れる状態を維持し、一人、孤立することはないように
行動しました。  どうして、そんなことをしてまで
わざわざ行ったのか、と思われるかもしれませんが、
戦場とか、開戦前の戒厳令下の緊迫下、疫病流行地域
アフリカやカリブのスラム街、そういった日本の日常とは
かけ離れた危険地帯へ、仕事で何度も行ってますので、
あんまり、気にはならないです。
むしろ、行ったことない国は、とりあえず
行ってみたいのです。
あまりふつうの人はいかないところへ
結構、行ってきましたので、
カメラで写真を撮っておけば、このブログも
もっとおもしろくなったのでしょうが、
殆ど写真は撮らなかったです。
ソマリアのお札とかなら、今でももってますから
一度、写真をアップしてもいいのかもしれませんが、
あれを持ってる日本人はそういないでしょう、
もっとも、ソマリアのお札をみて、感動する人も
滅多にいないのでしょう。
 
で、ビザはどうやってとったのか、と突っ込まれる
こともあります。そうですね、日本でとれるわけ
ないですね、外交ルートがないんですから。
これは簡単だったです。北京に一泊するのですが、
その間、北京の空港でビザがとれたのです。
特に、難しい話はなかったです。
ごく一般の観光ビザでした。
パスポートは困りましたね。
朝鮮民主主義人民共和国を除く世界の
すべての国で通用する、と書いてあるんですから
これは入国審査で見られたらよろしくない。
消してくれ、と外務省へ頼んだら、二本線で
「消す」のです。いや、そうじゃなくて、
それじゃ、かえって人の神経を逆なでするでしょう、
もう、デリカシーのない!!! と怒ったのですが
外務省はパスポートの再発行には何かと難癖をつけます。
たまたまページ数が残り少なく、しかもビザ申請に
6ページの余白を要する国へ渡航する予定があったので
それを理由に再発行してもらい、余計な文字が書いてないのに
換えてもらえました。
 
北朝鮮へ行ったことは一度だけですが、
「見た」ことはもう一回あります。
中国の集安という町から、鴨緑江を挟んで
対岸の北朝鮮領を見たのです。
中国側は、山々に樹木が生い茂り
鳥が飛び交い、草花が咲き乱れ
アヒルやガチョウが歩き回っていて
農家からは、子豚の群れが飛び出しては
愛想よく、なついてくる、、、
林道には、交通事故の犠牲になった
子豚がいたるところに転がっていて
可哀想ではありますが、それだけどこにでも
沢山いる、ということです。
 
一方、川ひとつ隔てた北朝鮮領。
山に木はなく、草もまばら、、、
飛んでいるものがいない、、、
動くものもほとんどいない、、、
(全部、喰ってしまったんだろう、、、)
妙なスローガンらしきものが掲げられたいるほか、
これといって「色」とか「色彩」というものがなく
シーン、、、 としています。
鴨緑江にかかる橋の真ん中に国境線があり、
ほんとうに、「線」が書いてあるのですが、
そこまでは中国領だから、北朝鮮のビザはなくても
いける、というので、歩いて、鉄橋を半分、渡りました。
国境警備隊の兵士は、この先へ行けば撃つと、
銃口を向けるので、線を越えなければ、
撃たれないんだ、と一応、安心しました。
たまたま偶然、一日に4回しか走らない国境を横断する
列車が通り、慌てて、鉄骨の枝骨に避難します。
中国から北へ食料を運ぶと聞きました。
何とも悲しい空気に満ち満ちた列車でした、、、
 
何色と問われれば、「悲しみ色」としか言えない
当時の鴨緑江を眺め、この人工的に切り裂かれた国境線によって
どれほどの人が辛い思いをしてきたのか。
「北」といっても、川の南側になるのですが、
川を歩き、泳いで、脱北してくる人もいるんだそうです。
ええ!? これを渡るのか、、、川幅も水量も結構あります
そういう人たちにはどういう運命が待っているのか、
中国の人も、とても都合が悪そうに、
それは聞くなと睨みながら、口をつぐんでしまいました。
 
首都、平壌の空港に降り立った時、
TVでみた、よど号事件の記憶やら、
鴨緑江からみた「北」の記憶がよみがえりましたが、
首都の空もまた、飛ぶものはなく、人間以外に、
地面を動くものも、ほとんどいない世界でした。
 
 
(続く)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

>>全投稿記事一覧を見る