藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。

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2014年07月25日

  

えとせとら

2014.7.25.
 
 
昨日、7月24日は
日本三大祭りのひとつ
祇園祭り本祭
 
本日25日は、もう一つの
三大祭りである
天神祭の日です
 
 
うちの細胞培養センターは
まともに祇園祭のど真ん中の地にあるため
山鉾巡行の日は
細胞の搬送に支障をきたさないよう
特別な注意をはらいます
 
最近では、7月17日に
山鉾巡行をやってきましたが
今年から、本祭の24日の巡行が
復活しました。
 
 
京都の人は
中国人ほど歴史に無頓着ではありませんが
あまり歴史に詳しくありません
周囲に当たり前のように
歴史があるような古都ですが
徹底した文化大革命によって
作られた歴史ばなしが流布され
いつか、真実をみないように
なっていったのでしょう
 
 
祇園祭りも
古代とはまるで様変わりです。
はたして、祇園祭りと呼んでいたのか
定かではありませんが
元々は、八坂神社の西向きの大鳥居など
(本式の鳥居は南向きの方ですが
 八坂神社は宮殿に向かう西向きのものが
 最大となっています)
各地から大船団を繰り出し
水路、宮殿の中心にある巨大な池に
集結していたそうです。
 
東西に 東洞院 西洞院 を抱く
大宮殿のど真ん中は、神泉苑の
巨大な池というか、人工の湖がありました。
 
今日の神泉苑は、わずかな端の部分だけが
取り残されています。
 
古の都のど真ん中だったところは
辛うじて、御池通りという地名に
名を残し、東洞院通り 西洞院通り と
いずれも、なぜか、通りの名前になって
しまいましたが、今となっては
何一つ、古の建物が残ってはいません。
中心地は、烏丸御池という交差点になってしまいました。
 
今では、通りの名前になってしまった
チョロチョロと水が流れる堀川は、
かつて巨大な運河でした。
 
宮殿の庭 古代神泉苑のど真ん中の池に
集結した大艦隊は、堀川を下り
さらに大運河 木津川を下り
今日の大阪市より大きい汽水湖
河内湖へと向かいました
25日には、古代の表玄関であった
上町大地の突堤の先端 渡邊の津に
集結した大艦隊は、勇壮な軍事教練を
繰り広げました。 
今日の天神祭には、多少、往時の
勇壮さが残っています。
 
 
京都は、琵琶湖に匹敵する膨大な水が
溜まった京都水盆に浮かぶ、浮き島のような
土地です。 そのため、今でも、夏は異様に
蒸し暑く、冬は、足元がしんしんと冷えるのですが
古代は、どうにもならない湿地で、人が住めなかったようです。
 
平安京遷都といいますが、平安京ができる前から
巨大な都がありました。 東洞院通りや東山界隈は
平安京遷都より、ずっと前から栄えていました。
 
そこで、ずっと「下(シモ)」の方の僻地を大極殿や
朱雀通りとして、都を作り直したのです。
下の方というのは、京の都の西の方です。
東山が最初に拓かれた土地で
かつて湿地だった時代に、ほどよく
高台として突き出ている東山から入植するのは
当然のことです
西の大宮通り辺りになると、標高が低いので
湿気が多くなり
かなり下町になってくるのですが
平安京は、いわば下町に作り直されたのです
 
では、いつから古の都があったのか
記録は何も残っていません。
 
考古学的には、4世紀の終わりから5世紀の初頭に
かけて、桂川という運河が掘られたことがわかっています
堀川、桂川に、鴨川、巨大運河によって、湿地の水を抜き
高地を走る鴨川は、平底に砂利を敷き詰め、天然の浄水装置
とした上で、地下水として河川水を染み込ませ
北の要に神泉苑の巨大な池を置き、
北や東から、南や西に向かって地下水脈を走らせることで
都のどこを掘っても、新鮮な井戸水が得られるようにした
ということがわかっています。
 
そこへ居候する人々が、平安京遷都と言ったようですが
おそらく、1600年前には、千年の都の礎は築かれていたようです。
 
誰がこれほどの大事業を行ったのか
歴史書は何も語りません
完全に日本の歴史が空白の時代であり
この時代に、日本という名称ではないにしても
今日の日本の地に国があったことを記す
記録として引用される文字に書かれた歴史としては
好太王碑の碑文をおいて他にありません。
 
そのため、第二次大戦が終わるまで、
陸軍を中心に好太王碑や周辺遺跡の調査が
活発に行われました。我が家にも、当時の資料が
いくらかありますが、戦後の資料よりも遥かに充実しています。
大日本帝国にとっては、好太王碑は、古代日本の存在証明と
して重要であると同時に、その内容については、
「都合の悪い真実」も含むという諸刃の剣であったようで
扱い方は慎重を期したもの。また、一部、文字が判読できない
部分は、関東軍が改竄したのではないか?
などなど、陰謀説には事欠きません。
 
なお、好太王碑には、好太王が、倭人と戦ったという記録がありますが
「倭人」 = 「日本人」 なのではありません。
倭人とは、揚子江中流域の棚田でジャポニカ米を栽培していた首狩り族の
ことですが、当時は、朝鮮半島南部や西日本に大量に
植民していました。
 
 
なお、4世紀の終わりから5世紀の初頭といえば
それまで、馬の骨がでてこない西日本各地から
突然、大量の脚の短い軍馬の骨が出てくる時期に
重なります。 
倭人は、脚が四本あるものなら、
何でも食べることで知られていますが、
馬と机だけは食べないといわれます。
後世、馬も飼うようにはなるのですが
騎馬軍団には、やられっぱなしの
歴史をもつようです。
倭人が日本列島各地に大量植民を始めたのは
紀元前3世紀ころ、最近の説では、もっと古いという
のもありますが、「大量」ということでは、概ね、
紀元前3世紀から、ということでいいようです。
その後、今日の名古屋市あたりまで、一挙に
勢力を拡大し、紀元1世紀ころまで、西日本で
発掘される人骨には、概ね、調理の跡がみられるそうです。
少なくとも、自然死には程遠い最期を迎える人が
ほとんどだったようです。 
これが、2世紀には、
落ち着きを見せ、まあ、畳の上で、かどうかはわかりませんが
壮絶ではない死に方をしたと考えられる人骨が出土するように
なり、文化的にも、倭風の文化と縄文文化が融合したような
ものが各所から出土するようになります。
首狩り族も、日本の優しい風土になじんでいった
ということなのでしょうか。
 
軍馬の大集団が、突然、日本に現れるのは
もっとずっと後の時期です。
4世紀が終わり、5世紀が始まるころ、です。
 
 
好太王在位の時に
突如、日本列島にあらわれた
大騎馬軍団
巨大な運河建設による
京の都の造成
 
考古学とは裏腹に
書かれた歴史は
完全に沈黙します。
この時期とその前後
仁徳天皇陵や倭の五王墓など
日本史上、最大の巨大古墳群が
大阪に造成された時期
それは、完全に文字による
歴史が存在しない時期に重なります。
 
 
 
という古代の謎もあるのですが
意外に「最近」 たかが400年ほど前に
日本中の町が作り直され
文化大革命がおこり
伝統文化が失われ
文字に書かれた歴史が
徹底して再編纂された
時代がありました。
 
その前はどうだったのか、、、、
日本の伝統なり歴史なり文化なりを
調べようとすると、とたんに、400年前から先の
記録が消滅します。
 
 
京都の祇園は、やはり400年前につくられた
新しい街です。 この時、烏丸御池にあった
宮殿は破壊しつくされ、神泉苑はほとんど埋められ
今ある京都御所がつくられました。
 
和服とされる着物も、日本の伝統とは何の関係もなく
この時代につくられた唐風の着物です。
呉服と書きますが、呉は、漢民族の言葉では
「ワ」(倭)と発音します。 
400年前  圧倒的な資金ソースを得た
商人の集団が、呉服問屋をはじめ、今日の総合商社の
元となって、商業資本主義の嵐を吹かせ
日本中を作り変え、歴史も書き換えられました。
儒教が政の基本とされ、身分制度が隅々に
行き渡りますが、やはり戦国時代が終わった
江戸時代初期に起こったことです。
 
京都でも、古代からの伝統の施設は破壊され
高瀬川が掘られ、木屋町通りや祇園の町がつくられ
これらをつくった大津を本拠地とする
呉服問屋が、祇園祭りを仕切るようになります。 
 
 
それ以来、祇園祭も、17日に一番、派手な山鉾巡行を
行うようになります。
 
 
 
 
 
 

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