藤井真則のブログ

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2012年04月27日

  

えとせとら

大量の海水流入によって、突然、出現した黒海。
難を逃れた人々は、氷河が後退していくユーラシア全土へ
拡散していきます。

世界史の授業で、「フェータル・クレシェンド」
肥沃な三日月地帯、という言葉を習ったのですが、
どうみても、なんで、三日月なのかが、ピンときませんでした。

今日では、メソポタミア文明が栄えたと考えられていた地域より
さらに北方に、もっと古い文明があり、徐々に南下していった
経緯が明らかになっています。 黒海周辺、アララトのツインピークスや
今日のグルジアなどから、人々が、南方へと都市を移動させていった様子を
図でながめると、確かに、最初は三日月の形に古代都市群が展開しているのが一目瞭然です。

そして、遊牧民を中心に、エジプトやレバノン方面へと、新天地を求めて
民族の移動が続きます。 継続して、というより、波のように、
出るときには多くの人々が一度にまとまって、出ていったようです。

一方、黒海より北方へ展開した諸民族の中には、
氷河の後退を追いかけるように、直ちに北方へ移動し
今日のスカンジナビア半島北端、ラップランドに
僅かに、生き残る民族もいました。

それ以外は、概ね、いったん、カザンラックの谷へ展開し
さらには、トラキア平原において、古代世界最大の巨大集落を形成します。

ヨーロッパやアジア北部の諸民族は、発祥の地が異なるのではなく、
トラキアの地を、いつ頃、離れて各地へ散っていったかという
旅立ちの時期の違い、と考えられています。

7000年以上前に、早々にトラキアを離れたラップ人(サミー人)に
始まり、7世紀になってから人口爆発を起こし、ヨーロッパ東部を席巻した
ブルガリ人などのスラブ民族まで、数千年間の間に、次々と民族の波が
広がっていきました。

カザンラックの谷は、バラの谷とも呼ばれ、シーズンに訪れれば
至るところ、バラの花が咲き乱れているそうです。
残念ながら、オフシーズンにしか行ったことがないのですが
ローズオイルは、どこかしこで、売っていました。
妖精が住む谷と呼ばれるだけあって、不思議な雰囲気に満ちた谷です。
ヨーロッパのメジャーな国を訪問するよりも、オリジナルの地を訪れた時の
印象の方がよほど深いものがあります。
ヨーロッパの王侯貴族の多くが、バラのエンブレムを用いますが、
バラの発祥はカザンラックとされています。この地を旅たった人々は
ずっと、バラの伝説を守り、象徴として用い続けたのです。

ヘロドトスは、「歴史」の中で、トラキアはインドの次に人口が多い
としていますが、6500年前頃の世界においては、トラキアは
ダントツの人口密集地でした。 ただ、ヘロドトスの時代ともなると
何をもって、トラキアと呼んでいたのか。 ブルガリアのトラキア平原なのか
トラキアから発した人々、ヘロドトスの時代でいえば、人口を増やしていたのは
ケルト人やゲルマン人です。 なお、トラキア人の名だたる人々といえば
ホメロスや、アリストテレス、アレキサンダー大王などですが、
ホメロスはフィン族とする説もあり、アレキサンダーはマケドニア人とも
されています。 どちらが正しいかではなく、広義では、みなトラキア人という
ことになります。 少なくとも、彼らをギリシア人と呼ぶ根拠は見当たりません。

トラキアの古墳群は、半端ではありません。
銅の山、ブルーマウンテンも圧巻でした。
ほんとうに青いのです。
(続く)

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